相模原グリーンロータリークラブ
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相模原グリーンロータリークラブ
第498回例会週報

497回 | 499回 | 2002-03週報目次
◆2002年8月 レバノン・パレスチナ難民
ボランティア・キャンプに参加して
福山会員

 昨年の夏10日間の日程でレバノン南部のパレスチナ難民キャンプに滞在し、ボランティア作業や家庭訪問を通してパレスチナの方と交流いたしました。私達がお世話になった、ブルジシェマリキャンプのベイトのセンター長、アブ・ワシームさんの最初の挨拶が、「どうか見たり聞いたりしたことを日本に帰ったら多くの方に知らせてください。」ということでした。そうか、それならできる、と思い、できるだけ滞在中聞いた話、その時の感じたことを手帳にメモしましたので、それをまとめてお話いたします。
 さて本題の前に一言、まず私自身はこのパレスチナ問題に対して何かできよう、などと大それた考えは毛頭ありません。ただちょうど一年前レバノンから来日した彼らとの、またこの問題に古くからかかわっているNPOの皆さんと出会い、そういう出会いや活動から得たものがとてつもなく大きかったことを告白いたします。



 宿泊したベイトの屋外のテラス(?)です。私達の食堂になりました。写真の青年達は現地のボランティアスタッフで、私達をフォローしてくれました。 皆さんとても優秀で学力の高さを感じました。
 ブルジシェマリは1955年に作られた難民キャンプで現在 18,000人が住んでいるとのこと、驚いたことに80%が日雇いで農園仕事(一日800円)をしているとのことです。 (※職業従事に制限がある。)
 また検問所があり、レバノン兵が立っています。建築資材の持ち込みは難しいということでした。



 キャンプに入るとわあーっと子供たちが集まってきます。とにかく目がキラキラしている子供らしい子供たちなのです。長く里親運動(子供たちの学費を長期間援助する運動)をやっていらっしゃる森本さん曰く「目が澄んでいるんです。私達が失ってしまったものがここにはある。」と仰ってました。
 ただ上記の青年くらいの年齢になると徐々に影のようなモノを内包しているのが感じられます。自分たちの不条理な境遇を正確に把握してくるからでしょう。



 次の日、さらに南部のラシャディエキャンプへ、いきなり検問所で2時間近く足止めされました。どうもレバノン軍に話が通じていない様です。そう、ブルジもここも検問所があるのです。子供たちの明るい笑顔に安心してはいけなかったのです。刑務所とは言いませんが、彼らが隔離された人々という現実は忘れてはなりません。
 この日は海岸と墓の掃除をしました。後に見えるのは地中海です。暑さは日本とあまり変わりませんが、なんせ雲らしい雲がなく雨は滞在中一度も降りませんでした。



 昨年来日したカトリーンとアハマドに再会。日本からのお土産を渡しました。



 作業の後は、バグパイプとパーカッション、踊りの時間、伝統衣装に身を包んだ少女達、月のように美しいとはこのことでしょう。
 踊りや音楽は民族の重要な文化です。パレスチナ人である以上、これを伝承するのでしょう。



 次の日からはペンキ塗り、小さな家で日本で言うと2Kでしょうか。お母さんは体格もよく、自らペンキ塗りを手伝ってくれました。娘さんはとてもおとなしく品の良いお嬢さん、名前の発音が難儀でひそかにあだ名をつけて区別していました。
 そしてペンキ塗り3日め、何とUNRWAの安藤さんと対面、まさかレバノンの難民キャンプで再会とは・・・。
 ラシャディエは海に面し割合緑もある方で牧歌的な雰囲気でするが、銃弾の跡、破壊された建物、内部にはファタハ幹部の家、何より国境線が見えます(約15km)。このキャンプも何度も破壊されているということをここのセンター長が教えてくれました。



 滞在中一番仲良くなったムハンマッド(18歳くらい)が自宅に招待してくれました。途中キャンプ内の夜の様子も見ることができました。
 ムハンマッドは自作の詩、スケッチやイメージフォトを貼った創作ノートを見せてくれた。彼はリーダーシップもあるしサッカーも上手い、またよく気が利きます。こういう有能な青年が能力を発揮する場が無いのはとても残念なことです。



 キャンプでの最後の夜はジャパンイブニング、こんどは私達がパレスチナの人々を楽しませる夜です。日本料理、空手、ぬんちゃく、アイヌの踊り、アラブの伝統舞踊を披露(?)しました。
 途中エジプトの人気歌手のカセットをかけると全員入り乱れてのダンス大会、なんていうのでしょうか、舞踊(ダンス)は彼らのDNAにインプットされているのでしょう。

 陽気な彼らのおもてなし、そしてブルジの夜は心地よい風がほおをなで、一時彼らの置かれた境遇を忘れさせます。しかしこの夜、そして私達が一瞬の旅人とは言えここに滞在していることは、多くの障壁をクリアしてもらって実現したことです。彼らと自由に再会するとか日本に招待する、ということが現時点では困難であるということを、ナイト終了後、北林さんが「も うすぐ帰るのか・・・」と悲しそうな顔をされたことで再認識させられました。

 10日間コースの私は実質的に最後のキャンプでの夜、心の中で彼らとの再会を誓うのでした。