<パレスチナの子供たちを迎えて> 福山会員
(1)きっかけ「上條さん・安藤さんとの出会い」
もとより私は中東問題に関心が強かったわけではありません。上條さん、そして現在、ガザのUNRWA(パレスチナ難民救済事業機関)本部にいらっしゃる安藤さんにお会いしたことがきっかけで関心を持つ様になりました。
上條さんとは同時期に開催された「青色の丘」インスタレーションをお手伝いすることとなり、その中で2度の難民キャンプ訪問の話を聞きました。現在ガザのUNRWA(パレスチナ難民救済事業機関)に勤務されている安藤さんとは、当クラブ10周年記念式典の時少し突っ込んだお話を伺いました。(当時安藤さんはアラビア大使館勤務、ボランティアで「難民支援協会」の理事をやっておられました)。
お二方から聞いた話は、私が従前「パレスチナ」に対して漠然と抱いていたイメージが、かなりおおざっぱで少なくとも完全に正確ではない、ということを気付かせてくれました。
(2)パレスチナ問題とは「20世紀大国のエゴが生んだもの」
1000年後の歴史家が20世紀を概観する時、パレスチナ問題をいろいろな点で20世紀の歪みを象徴する出来事として取り上げることは間違いないでしょう。
直接の原因は20世紀初頭、第一次世界大戦時のイギリスの三重外交です。長らくオスマントルコ支配下にあったパレスチナ地域が一気に流動化しました。1947年イギリスはこの問題を放り投げ(パレスチナの委任統治権の放棄)、国連に持ち込み、国連総会がパレスチナ分割決議を採択しました。
ここにシオニズム運動は成功しイスラエル国家建国となりました。しかし、これに反発するアラブ諸国との間で、4度にわたる中東戦争が起こるなど紛争が続き、大勢の難民が発生しました。
◆ シオニズム ◆
エルサレムの別称「シオンの丘」へ帰還しようという意味から生まれた、ユダヤ人国家建設運動やユダヤ民族主義を指す。ユダヤ人ジャーナリスト、テオドール・ヘルツルの提唱でスイス・バーゼルで開かれた第1回シオニスト会議(1897年)で「ユダヤ民族の故郷をパレスチナに創設する」との綱領が採択され、シオニスト運動が本格化した。
◆ パレスチナ問題関連年表 ◆
《紀元前》
1000年ごろ エルサレムがダビデ王国の首都に
63年 ローマ軍がエルサレムを占領、支配下に
《紀元後》
70年 ローマ軍がエルサレムを破壊
638年 イスラム勢力のエルサレム征服
1099年 第1回十字軍がエルサレムを占領
1516年 オスマントルコ帝国のパレスチナ支配開始
1897年 第1回シオニスト会議開催
1915年 英国がイスラム聖地メッカ守護者にアラブ王国独立を約束(フセイン・マクマホン協定)
1916年 英国が仏国などとオスマントルコ領の分割協定締結(サイクス・ピコ条約)
1917年 英国がユダヤ人有力者にユダヤ人国家建設支持を約束(バルフォア宣言)
1920年 パレスチナが英国の委任統治下に
1947年 国連総会がパレスチナ分割決議を採択
1948年 イスラエル建国宣言、第一次中東戦争
1956年 エジプトがスエズ運河国有化宣言、第二次中東戦争起こる
1964年 パレスチナ解放機構(PLO)設立宣言
1967年 第三次中東戦争。イスラエルがヨルダン川西岸、ガザなどを占領、東エルサレム併合
1973年 第四次中東戦争
1977年 サダト・エジプト大統領がアラブ首脳初のエルサレム訪問
1978年 米国、エジプト、イスラエルが和平合意
1979年 イスラエルとエジプトが平和条約締結
1981年 サダト・エジプト大統領暗殺
1993年 イスラエルとPLOが相互承認し、パレスチナ暫定自治共同宣言調印(オスロ合意)
1994年 ガザなどからイスラエル軍撤退、先行自治開始
1995年 ユダヤ教過激派がオスロ合意締結のラビン・イスラエル首相暗殺
1996年 アラファト議長、初代自治政府議長に
2000年7月 クリントン米大統領の仲介でアラファト議長とバラク・イスラエル首相が中東和平会談
9月 シャロン・リクード党首がエルサレム旧市街の聖地訪問を強行、イスラエル・パレスチナの衝突激化
2001年3月 シャロン党首がイスラエル首相就任
(3)レバノンから来日「普通のこどもたち」
皆さんも例会で接せられたのでわかると思いますが、彼らは本当に普通のこどもたちでした。成田のホテルでは走り回り、五色塾でも自転車を乗り回し、ゲームセンターに連れて行ったら「また行こう、また行こう。」とジャミーラさんを困らせ、はやりの音楽を聴き・・・。
今私が一つだけ言えることは、彼らは日本の子供たちと変わらない普通のこどもたちで、言うまでもなく断じてテロリスト予備軍では無く、もし彼らが理由もなく撃たれたとしたら、それは不条理そのものであるということです。
(4)子ども達と過ごして「もはや抽象ではない」
最年少のアハマド君はとてもクレバーでかなりの学力があることを感じさせました。挨拶を求められると「僕は医者になって傷ついたパレスチナの人々を直したい。」と言って拍手をあびていましたが、現実に目を戻すと、レバノンではパレスチナ難民は市民権がなくかつ70以上の職種への就業が禁じられており、その中に「医者」も入っています。つまりアハマド君は現在の情勢では医者になれません。上條さんから難民は貧しいだけでなく、いろいろな制限があると聞いていたのですが、そのことをまざまざと実感させられました。
彼らが帰国した後のことでした。テレビのニュースを聞いていると、イスラエルの侵攻で10歳くらいのアハマドという名の子どもが病院に運ばれたと報道していました。私の会ったアハマド君はレバノンですので、同一人物のはずはないのですが、このニュースがもはや抽象ではなくリアリティを持って私に迫って来ました。
(5)未来の世代へ「競争ではなく共生へ」
今回の来日の中で五色塾の子供さん達、ホームステイの各ご家庭のお子さんたちと接したことが、何よりの成果だったのではないでしょうか。
長谷川さん宅でNHKのテレビ録画を見た時、アナウンサーが「彼らは祖国を知らないし帰ることも許されていません。」と言いましたら、長谷川さんのお嬢様が「えー、どうして?」と驚かれていました。また五色塾の子供たちは彼らと再会の約束をしたそうで、別れの朝はみな涙、涙でした。本当に人を愛しむというのはコミュニケーションから始まる、ということを実感いたしました。
今回実行委員会で資金を補充するため、いろいろな団体、個人の方にお会いしました。その中で相模原ローターアクトの皆さん等、若い世代の方ほどビビッドな反応をしてくださった方が多いということは印象的で、自分の傷みとして感じ取ってくれている様でした。
21世紀安藤さんはじめ、ローターアクトの皆さん、五色塾の子供さん達、そして世界中の彼らの世代が解決していくことは期待していいのではないでしょうか。
(6)終わって「関心を持ち続けていきたい」
レバノンの子ども達と接したことも貴重な体験だったことはもちろんですが、「パレスチナ子どものキャンペーン」はじめNPO関係の皆様が自分の身銭を切り時間を削って活動している様子も目の当たりにし、こういう方々と接しお話ができたことはとても勉強になり、貴重な体験でした。
この体験をどう自分の中で有益なものにしていくか、まだまだ自分の中で消化できていません。もちろん私自身がこの問題に対して何かできよう、などと大それた考えは毛頭ありません。ただ今となっては、まったく無視して見過ごせるか、というとそれも難しい。
どうやら「今後関心を持ち続けていくこと」このことだけはできそうですし、持ち続けていればいずれこの体験が自分の中で発酵して何かが生まれてきてくれればと思います。
最後にご協力くださったクラブの皆様、ご家族の皆様に深謝いたします。
どうもありがとうございました。
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