相模原グリーンロータリークラブ
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第457回例会週報

456回 | 458回 | 2001-02週報目次
◆卓話「ちょっとロマンのある話 2」霧生会員
<ちょっとロマンのある話 2>
 霧生会員

 今日は縄文の人のイデアについて話をしたいと思いますが、高校の教科書では縄文時代は原始的な狩猟採集に生きる民の時代で、アニミズムを信じ、土器を使用し云々と1ページくらいで片付けられて、現代の我々とはなんの関係もないように書かれているのですが、聖徳太子が生きた時代より現代迄は1500年程ですが、縄文時代は1万年ぐらい長いものでそのイデアは歴史の流れの中で大きく影響を与えており現代迄もその影響下にありますが、その高い精神性は明治以後失いつつあるのかもしれません。大正時代満岡伸一氏の葉書で関東地方にも古代アイヌが住んでおり内々さえも同じ血が流れていることすなわち、縄文人の末裔がアイヌ人である意味内容を書いていますが氏が当時アイヌの村に入ると数千年前の古代をそのままみるようだと言っていますが、ちょっと抜粋します。
   「アイヌ人の生活の全ては宗教が根本となり、日常互般の事、皆神と交渉を持ち全村、全家族が神を中心として生活し神意に背がないようにつとめると言う状態であった。家には戸締りもなく、倉に鍵もない。道に落し物があってもこれを拾う者もないという所謂聖人、君子の道をそのまま生活に現わしていた。而もこれを日常普通の事として怪しまなかった程で、神の国にも比すべき楽園とでもいうべきである。」
 ここに書かれている人々の生活はその精神性も含めて縄文の時代より数千年あまり変わることなく現代迄つづいて来たのでしょう。特に言魂思想は、人が嘘を言っても言魂が聞いているのでけして言ってはならない、又、言ったことは実行しなければならないなど言葉に重要性をみてたいへん倫理的に生きて来た人びとと思われています。このように生きて来た縄文人はどのような世界観をもっていたのでしょうか。明治20年福島で死体損傷事件があったそうですが、それは埋葬地で子をはらんで亡くなった女性のおなかよりそのおなかの子を取り出されて埋葬するということが摘発されたそうですが、縄文時代にも同じことが行われていたと思われており、2千数百年つづいて来たその行為の人々の思い、又その世界観の根強さにたいへんおどろくと共に現在に生きる我々の内にも遺伝子と共に心の中にそのような根源的な人々の思いの部分が流れているのではなかろうか。縄文人は全ての生き物、植物、そのへんの石ころに至る迄、霊の存在があるものとして全てが生から死、死から生へと循環をくりかえし全ての生き物、物質が共生しそこにたくさんの神が全てを支配していると考えられていました。その死生観では、天の一角にこの世と別な世界があり人は死ぬとその霊は山に行き、その山より天に帰り祖先と共にくらしやがてこの世に生を受けると信じられてきました。母の体内にいた子は母体の死によりあの世に帰ることができない為、体内より取り出して母と共に埋葬する必要があり各地で出土されている土偶はあの世への道案内でしょうかその子に添えられたと思われています。又、屈葬は亡くなった人が生前の自分の肉体に未練をのこすことのないよう早くその肉体から離れて祖先のもとに帰ることが出来るようにとの思いが込められているとのことです。あの世はこの世とはあべこべの反対の世界だそうですが、その為かこの土偶には完全なものは出土しないそうです。ある方が亡くなった方への添え物の椀は欠いておくものだと言われましたがあの世に行くと完全なものになるのでしょう、紀元前300年ごろ平和な縄文の時代は外来人の武器と稲作により滅んだと言われて来ましたが、実は古墳時代になっても東北地方には蝦夷と言われたアイヌ-縄文人の末裔が生きており中央の武力が北に延びるに従い北へ北へと追われていくわけですが、奈良、平安時代になっても日本全国に生き延び、鬼と言われ時代と共に天狗、猿とも、熊襲、土蝶蛭と言われるようになってしまいましたが、北海道のアイヌはその文化をもちつづけて生きて来ました、紀元500年ごろ百済よりこの日本に仏教がもたらされますが、縄文の世界観は強く人々の心にのこり仏教がその世界観を取り入れることにより人々に仏教が受け入れられるようになったことは事実と思われます。たしかに浄土教でも浄土よりこの世に帰るという考え方はなく正月、盆、彼岸の行事は祖先崇拝の思想を仏教が取り入れたということになると思われます。葬儀は死考送りのものとして仏教に負わせてもよかったようでいまでも仏教が引き受けているわけですが家の中にも仏壇と神棚ありというのもけして矛盾するわけでもないと思われます。子供のころ盆になると親に言われて迎え火、送り火をやっていましたが、現在にも生きる循環と共生の思想はその郷愁と共にたいへん大切なものと思われます。全ての生命に尊厳を認め自己を同じところに置いての考え方は失われつつあるのかもしれませんが、人々が平和に生きるには必要なものかもしれません。人を刑罰で律することはむずかしくドストエフスキーが多くの人が神を信じなくなった現代、人を倫理的に律することがむずかしくなっており人が人を殺すことも合理化されてしまうと嘆き大きな戦争をも予言しているようです。又、それが現実になってしまった歴史があります。命の尊厳を倫理的に考える循環と共生の縄文の人々の考え方はたいへん大切に思われます。


★米山の記念品と今後の予定について
 パトムウィリウォング・サーティマーさん

 この度、米山奨学生として博士号を取得し奨学期間終了に記念品を頂き、ありがとうございました。また、相模原グリーンクラブにはいろいろお世話になって、心から感謝しています。
 今後の予定は、これから一年間アメリカのカリフォルニア大学のサンタバーバラ校に通ってポストドクターコース(Post Doctor Course)に入り研究を続けます。その後、タイに帰って、大学の先生になりたいと思っています。

記念品はこれ