ロータリー創設から確立までの背景!

<如何に捉えるか?>

1920年1922年

<1921年>

 1921年-(大正10)- 世界のロータリークラブ数が1千に達する(ヨーク)。
 第一次世界大戦後の避難民救済、傷病兵慰問等のためにエジンバラ国際大会で「国際奉仕部門」が生まれる→ ロータリーの綱領の不可欠な一部として国際親善と平和目標を採択する。
 カナダ人C.マッカローがRI会長に被指名。
 「奉仕の理想に結ばれた実業人と専門職業人の世界的親交によって、国際間の理解と親善と平和を推進すること」
 <昨日までの私達のロータリーは子供でした。今日、力強く勢いに満ちて世界に第一歩を踏み出します!-ポール・ハリス>
 エジンバラ国際大会はアメリカ本土を離れての始めての大会であった。
 政治、宗教にも通商にも関係なく各国から多くの使節が集まったことは、当時としては、極めて珍しい出来事であった(米国のロータリアン達は2隻の船をチャーターし、多くが家族ともども参加した)。
 例会にメーキャップを認める規定も、この大会で決定された。
 PH.の親しい友人でもある加・カルガリーRCのJ.W.ディヴィッドソンと加・ハリファックスRC のC.J.レイトン・ラルストンの2人が「国際親善と平和」の理想を広めるための特別委員に選出される。ラルストンは後のカナダの大政治家である。
 彼等によりオーストラリア・ニュージーランドの拡大増強が目覚ましく成された。
 31名の「統一的定款細則」検討委員会が出来る。
 南ア、ペルー、メキシコ等、更にパリ・ロータリークラブが成立する。
 
 独が連合国の戦争賠償案を拒否!3/8に連合国が報復、ルール、デュッセルドルフなどを占領する。
 独・統一共産党のハンブルグ武装蜂起、失敗。
 米が旧独植民地の処分に権利を主張。米大統領が移民制限法に署名(↓3%)。
 9/30、婦人・児童売買禁止国際条約作成。大英帝国→「英連邦」結成される。
 ロンドンで国際ペンクラブ設立(P.E.N.-ペンは剣より強し)、会長はゴールズワージー、英国の作家スコット女史の提唱で、41人の詩人・作家が参集!
 5-5-3のワシントン軍縮会議にて、12月 ワシントン体制確立→日英同盟廃棄。
 国際連盟が、ボルガ流域、ロシア南部の旱魃による飢饉(餓死300万人)にあえぐ、ソビエト・レーニンの援助要請を拒否する!イラン軍事クーデター。
 モロッコ「リフ戦争」勃発(?26年)。米スタンダードオイルがイラン進出。
 米連邦高速道路法。米戦後のデフレ続!「平民宰相」原敬暗殺される(65才)。
 団琢磨団長以下英米訪問実業団(49人)が横浜から出発。借地・借家法公布。

※ 1921年、エジンバラ大会での新綱領
  1. 世界中のすべての商業中心地にロータリークラブを結成するよう奨励し、推進し、監督すること
  2. 地方的活動ではなく、全加盟ロータリークラブの仕事および活動を調整し、標準化し、かつ全般的に指導すること
  3. 国際連合会自身の活動を通じ、また加盟ロータリークラブを通じて次の事項を鼓吹し育成すること
     a 実業および専門職種における高い道徳的水準
     b すべての尊敬すべき事業の基礎としての奉仕
     c 地域地域社会の市民、商業、社会の繁栄および道徳の高揚に対する全ロータリアンの積極的関心
     d 成功を助け、かつ奉仕の一つの機会として広範な交友関係の増進
     e ロータリアンの能率と有用性を高める手段として、構想および事業運営方法の相互交換
     f すべての合法的職業は尊重されるべきであるという認識を深め、各ロータリアンの職業を、社会への奉仕の機会を提供するものとして品位あらしめること
  4. ロータリーの奉仕の理想に結ばれた、あらゆる国の実業人と専門職業人の親交を通じて国際間の平和と親善の推進に助力すること
  5. 専ら全ロータリアンのみの使用と利益のために、国際ロータリーの徽章、その他の記章を創案し、採択し、保存すること

※ 「国際奉仕部門」が生まれる
 → ロータリーの綱領の不可欠な一部として国際親善と平和目標を採択!
 この決定はロータリーの歴史における一つの重要な転機になった。
 1921年のこの大会に参加した者は、既に樹立されていたロータリーのプログラムに新たに追加されたこの国際奉仕が、後の世代のロータリアン達によって、ロータリーの数多い努力活動の分野の中で最も実り多きものであり、ロータリーの実際活動プログラムの中の圧倒的な要素であると認められるようになろうとは、誰一人として予測できる者はなかった。
  (ROTARY MOSAICより抜粋 )

※ 崩れた米国理想主義(ヴェルサイユ条約)
 米国のドナルド・グレッグ元駐韓大使は、米中央情報局職員として、戦後の一時期、日本に駐在したことがある。そのグレッグがかつて目を細めながら、「日本はアジアの宝石だ」と話していた。
 軍国主義から民主主義に変わり、米国の堅固な同盟国に変身した日本は、戦後米外交にとっては宝石のよ うな成功例だ。
 そのために、影で働いた"老スパイ"は、反共民主主義の戦士の仕事に誇りを持っていた。日本は、彼にとっては「ほのかなセンチメンタリズム」の対象なのかもしれない。
  「民主主義のための聖戦」は米国外交の基本である。その根底には「世界を自国の姿に似せて作り変えたい」という衝動がある。その衝動を、米外交に植え付けたのがウィルソン大統領だ。
 1918年12月、パリ講和会議に向かうウィルソン大統領が乗ったジョージ・ワシントン号には、大きな文書箱が乗せられていた。中には、独立を願うアルメニア人や日本の専制支配を糾弾する朝鮮民族など、全世界の抑圧された民族から寄せられた訴えが詰まっていた。
 ウィルソン大統領は、同行させた学者調査団に「何が正義なのかを徹底的に分析して欲しい。私はそれを条約に盛り込むために戦う」と宣言している。
 ウッドロー・ウィルソン研究所のサミュエル・ウェルズ副所長は、「ウィルソンは長老派牧師の家系に育った厳格なモラリストで理想主義者だ。14カ条に掲げた民族自決や、国際正義に基づく集団安全保障の理念は、決して、ただのスタイルではなくて、まさに彼の信条そのものであった」と話す。
 長い孤立主義から決別したアメリカは、「民主主義のための宣教師的情熱」  (ウェルズ)で、国際政治にデビューしたのである。
  だが、"正義"ではなく、列強の力の均衡によって平和を維持してきた欧州にとって、「個人と国家の道徳は別もの」(キッシンジャー元国務長官)だった。
 老獪な政治家、クレマンソー仏首相は「神でさえ十戒しか与えなかったのに、ウィルソンは14カ条も要求する」と提案の非現実性をあざけった。
 同首相にとって、平和条約の目的はドイツの恒久的弱体化にあり、イタリアにとっては戦利品の獲得だった。ウィルソンの理想主義と欧州外交のルールは衝突し、泥沼の会議は五ヵ月で1,646回もの会合を開いて終結する。
 完成した条約は、民族自決に反し、ドイツ植民地を「委任統治領」の名目で戦勝国に引き渡し、膨大な賠償金をドイツに課した。
 ウィルソンが固執した国際連盟は、かろうじて発足したが、その時、米国は孤立主義に逆戻りしていた。
 国際連盟条約の批准を求めるため、全国行脚に出かけた大統領は脳溢血に倒れ、上院は連盟への参加を葬り去った。
 ウィルソンの理想主義外交は悲劇的な結末を迎えた。
 しかし、キッシンジャーはウィルソンの外交を「米・外交政策の分岐点」 と指摘する。
 その理念は、「その後の全ての大統領が支持し」(キッシンジャー元国務長官)、第2時大戦後の対日、対独占領政策の基本となって、ソ連との果てしない対決の根拠になった。
  だが皮肉にもそれは、ベトナムや中南米で、民主主義を守るために独裁政権を支持するという矛盾も生み出した。
  グレッグはその後、レーガン政権でブッシュ副大統領の安全保障補佐官となり、ニカラグアのソモサ独裁政権の系譜を引く反共ゲリラへの秘密支援作戦への関与が暴露されて、駐韓大使を最後に引退した。
 「民主主義のための聖戦」は、米国外交のパラドックスの源泉でもあるのだ。
 <欧州大戦、中公文庫「ヴェルサイユ条約」飯山雅史氏執筆分から抜粋>

※ ネイティヴィズム
 第一次大戦後の世界に幻滅したアメリカ人は、一般に、アメリカを外国の影響から守りたいと考えるようになっていた。この排外感情、つまりネイティヴィズムは移民制限となって政策に現れた。
 いわゆる「新移民」(南・東欧系)は、アングロサクソン系を主流とするアメリカ人から嫌われる傾向にあり、大戦後再び増え始めたなかで、彼らは法律によって排除されることになった。
 1924年の"新移民法"は、1890年の国勢調査における出身国別人口の2%の移民を許可するというものであり、南欧東欧からの出身者がまだ少なかった年を基準にすることにより、実質的に「新移民」を排除することになった。
 この基準によるとグレート・ブリテンと北アイルランドには合わせて65,700人の移民が割り当てられたのに対し、イタリアは5,802人だった。
 同移民法は日本からの移民を帰化不能の国民ということで完全に禁止した。
 アングロサクソン系ないし西欧北欧出身者を多数とする人口構成の維持という法律の意図は、達成されたといってよい。
  1924年以降、移民は激減した。その流れは1965年移民法改訂まで続く!
 (「アメリカの20世紀」(上)、有賀夏紀著、中公新書より抜粋)

※ エジンバラ大会でのシェルドンの講演([ロータリー哲学])
 1921年、エジンバラ大会でフレデリック・シェルドンが発表した[ロータリー哲学]と題する講演は、ロータリーの理念を哲学的に解釈したものであり、ヨーロッパのロータリアンに大きな感銘を与えました。
 この論文は非常に長文であるために、その一部をご紹介します。
 ロータリアンの職業は利益を得るための手段ではなく、その職業を通じて
 社会に奉仕するための天職であると、次のような例えを述べています。

 「今、仮に全世界の靴屋の会合が開かれて、靴に関連する職業を持っている
 全世界の人が集まったと仮定します。
 その人たちに、なぜ靴屋をしているのかと質問すれば、殆どの人は、儲ける
 ためと答えるに違いありません。5%くらいの人は、自分の仕事が他の人の
 ためになるから(職業を通じて他人に奉仕するため)と答えるかも知れま
 せん。仮に、その場所に天変地異が起こって、集まった人たちが全員死んで
 しまったらどうなるでしょうか。当分の間は、何の影響もないかも知れませ
 んが、やがて全世界の人たちは、靴を履くことができなくなってしまうこと
 は確実です。そこで、初めて、5%の人たちが答えた、職業を通じて奉仕す
 るという言葉の真意が理解できるのです。」

  奉仕哲学は、原因によって結果が証明できる科学であるという前提から、「奉仕」と「自我」と「利益」の関係を明快に説明しています。
 社会生活において我々が得るものは、同僚からの愛や尊敬(L:Love)を受け、自らの良心や自尊心(C:Conscience)を保ち、金銭すなわち物質的な安定(M:Money)があってこそ、人生の満足や幸福(H:Happiness)が得られます。(幸福の正三角形)
 また社会生活に於いて我々が与えるものは、良質なもの(Q1:Right Quality)を、必要とするだけの量(Q2:Right Quantity)を、正しい状態(人間性とか事業の管理状態)(M:Mode of Conduct)で提供してこそ、満足感のある奉仕(S:Satisfactory Service)ができます。(奉仕の正三角形)奉仕の原理を人間関係学から説き、その結論として、He profits most who serves bestというロータリーの奉仕理念こそ、宇宙の摂理にかなった、絶対的な法則であるという説明をしています。
  なお、1913年のシェルドンの論文には、この発想はインド哲学より引用したものであると書かれています。