ロータリー創設から確立までの背景!

<如何に捉えるか?>

1919年1921年

<1920年>

 1920年-(大正9)-1月に国際連盟正式成立。
 第一次世界大戦後のロータリーの発展は目覚ましかった(1920/21年度で758 RC.、5万6千人余に到達)
 欧州大陸で初の、マドリッドRC結成される。19/20はA.S.アダムス氏が会長。
 アトランティック・シティーで、第11回ロータリー国際大会が開催される。
 ハリスの親友であるエスタス・スネディコル(オレゴン州ポートランド)が国際ロータリークラブ協会の会長に選出される。
 前年創立された上海RCの会員で初代幹事であったジョージ・トリードウェルがシカゴRC専任幹事となり、1947年まで27年間勤め上げる。NY.での青少年パレードを後援する。
 アトランティック・シティー国際大会では初めて「接待所」が登場したが、 これが1924年トロント大会の時に発足し、好評を博している「友愛の家」 の前身であり、以後いつの国際大会にも設けられるようになった。
 10/20 日本最初の「東京RC.」が誕生する。初代会長は米山 梅吉氏。
 
  米国で国勢調査→総人口は1億571万620人。うち白人は9482万915人。
 黒人は1046万3131人、インディアン24万4437人、中国人6万1639人、日本人11万1010人、その他9488人であった。
 なおシカゴの人口270万人。 日本でも第1回国勢調査→内地人口5596万1140人、外地2104万4370人。
 米公衆保険局、米人の平均寿命は54.09才と発表する。1901年当時は49.24才であった。
 米36州で婦人参政権発効。
 この頃、米では機械化が未熟練労働者の需要を減退させていた。
 米グランドキャニオンが国立公園に指定される。米ハーディング大統領に!
 ロシア革命への恐怖から全米に赤狩り旋風!-一夜に4千人を逮捕する。
 4/15にマサチューセッツ州サウスブレ?ントリ?で起こった武装強盗殺人事件の容疑者として、新移民でアナーキズムの信奉者、製靴工サッコと魚行商人バンゼッティーが逮捕され、米犯罪史上に残る冤罪事件となる
 米農産物価格が暴落する→世界農業恐慌の始まり。米、初の商業的ラジオ。
 シカゴの鉄道労働者がストに突入、全米に拡大!上野で日本初のメーデー。
 パリで米・英・仏・伊・ベルギーの財界人が国際商業会議所の創立総会開催。
 米カリフォルニア州で排日協会の上院議員インマンらにより排日土地法成立。
 ハイデルベルグの神話的人物と敬愛され、名著「プロテスタンティズムと資本主義の精神」を遺したマックスウェーバーがミュンヘンで死去(56才)。
 横浜の大貿易商「茂木商店」破綻-全国的に取り付け騒ぎ! 箱根駅伝開始。

※ 東京ロータリークラブの誕生(ロータリー日本60年史より)
 ダラスRCの会員であった三井物産(子会社-東洋綿花役員)の福島喜三次(きそじ)氏が、かねて在米中に、ダラスで知己を得た米山梅吉氏(1918年、政府財政調査団の一員として渡米)に依頼、三井合名参与・三井銀行重役の米山氏(初代会長)を中心にして設立される。米山梅吉氏は当時50才であった。福島喜三次氏は初代幹事となった。
 なおシカゴからはパシフィック・メイルスティームシップ会社横浜支店長のウィリアム・ジョンストン氏(〜1919年まで上海RC)も特別代表格で応援に加わった。
 まず1920年8月に銀行クラブに18名を集めて説明し、続いて9月1日発起人会を開いた。
 そして10月20日に銀行クラブに24名が出席して創立総会を開き東京ロータリークラブが誕生した。
 翌1921年4月1日付けで登録番号855をもって承認された。
 その時のロータリークラブ国際連合会会長はエスタス・スネディコール氏、幹事はチェスリー・ペリー氏であった。
 初めは会員の選考がきわめて厳格で特に語学には注意がはらわれ、クラブの記録通信などもいっさい英文であったとされる。
 米山会長、福島幹事以外の設立直後のメンバーは以下の通り。

 深井英吾(日銀理事)、藤野正年(日本染色取締役)、藤田譲(明治生命専務)、
 藤原俊雄(内外興業社長)、掘越善重郎(掘越商会会主)、星一(星製薬社長)、
 井上敬次郎(東京市電気局長)、磯村豊太郎(北炭社長)、伊東米次郎(日本
 郵船社長)、岩井重太郎(日興證券社長)、樺山愛輔(日本製鋼会長)、
 梶原仲治(横浜正金銀行副頭取)、岸啓二郎(芝浦製作所取締役)、北島亘(北
 島商会会主)、倉知誠夫(三越常務)、牧田環(三井鉱業常務)、長野宇平治(建築士)、
 小野栄治郎(興銀副頭取)、佐野善作(東京商科大学学長)、清水釘吉(清水組代表社員)、
 津島健之助(東京日日新聞取締役)、和田豊治(富士紡績社長)、三神敬長(南海産業社長)、
 田原豊(三菱製紙社長)、宮岡恒次郎(弁護士)、相馬半治(明治製糖社長)、
 朝吹常吉(千代田組顧問)

 等、錚々たるメンバーでありましたが、その活動は低調で、月1回(第2水曜日)例会で地域奉仕も殆ど見られず!
 1922年、ロサンゼルスの大会決議で「週1回例会」が義務付けられたが、1922年6/6以前に設立されたクラ ブには拘束力が及ばず、戦前の東京RCは特権保有クラブとして月1回例会が認められていた。
 東京RCの姿勢が劇的に変わるのは関東大震災に対する全世界ロータリークラブからの多額の義援金を深謝した時からだと言われる。

 ※ ロータリーとマフィア
 1911年にシェルドンがHe profits most who serves bestというロータリー哲学を発表し、1915年の道徳律制定、翌16年のサンフランシスコ大会において、道徳律が収録されたガイ・ガンディカーの「ロータリー通解」の全員配布によって、職業奉仕理念は完成したと考えられます。
 このようにして定められた職業奉仕の理念は、1916年頃から、ロータリアンが経営する事業所に「道徳律」を適用するという形でその実践が始まっていきます。
 プロフィットを周りの人たちとシェアするというロータリーが提唱した職業奉仕の理念を実践に移すことによって、ロータリアンが自らの体質を改善して、その事業を隆盛に導き、さらに世に有用な職業を尊重し、自らの職業を通じて社会に貢献し、業界の職業倫理の高揚を求めていったことは、ロータリアンは当然のことながら、一般社会の人たちも大きな尊敬と賞賛を与えたことは明らかです。
 当時のロータリー運動は、ロータリー運動の中心である職業奉仕の実践によって、ロータリアンと一般社会の人々双方に大きなメリットを与えました。
 従って退会を考えるロータリアンはいるはずもないし、入会を希望する候補者が殺到したのです。
  ロータリーが一般大衆から尊敬の念で見られるようになったバック・グラウンドとして、当時シカゴに台頭したマフィアと互角に闘ったことを否定することはできません。
 1899年にブルックリンで生まれたアル・カポネは、10代半ばでニョーヨーク・マフィアのチンピラとなり、1910年頃からシカゴで勢力を伸ばしつつあったジョニー・トリオの片腕となったのは1919年、彼が20歳の時でした。
 1920年禁酒法施行と共に、マフィアは大きく勢力を伸ばしていきます。
 世に有用な職業を前提として職業奉仕理念を実践に移そうとするロータリーと、世に有害な職業を前提とするマフィアが、ここで真正面から対立するわけです。
 ロータリーの古い文献を調べると、これに関する幾つかの記述を見ることが出来ます。
 禁酒法の施行されていないイギリス、特にスコットランドから密輸されてくる酒を取り締まるために、両国が協定を結んだのは、2国間の争いを未然に防ぐためにロータリアンが実践した、他国法を尊重するという国際奉仕の成果であるといわれています。
 マフィアによって牛耳られていた映画産業を粛清し、さらに公開前にその内容を検討するために、広報委員会を作って、映画の倫理規定を実施しました。
 禁酒法の影響を受けて、マフィアの影響力が強かったレストラン業界を、ガイ・ガンディガーが作った「レストラン協会の道徳律」を使って改革したのもこの働きかけの一つです。
 さらにロータリアンの眼鏡商を証人として出廷させて、遺留品の眼鏡からマフィアの大物を逮捕するきっかけをつくったり、シカゴ・クラブ元会長ローシュ大佐をシカゴ市防犯委員長に任命して、マフィアとグルであった警察を徹底的に粛清したり、シカゴ市の犯罪防止におおきく貢献したという記録が残っています。
 連邦警察もエリオット・ネスを隊長とする特殊部隊を投入して、ついに1931年に所得税法違反でカポネを逮捕し、翌年実刑11年の判決を受けて、アル・カトラスに収監されたことは、アンタッチャブルでおなじみの話です。
  ちなみに、カポネは若いときに感染した梅毒が悪化したため刑期半ばで釈放されたもののフロリダで廃人同様の生活を送り、1947年に48歳でこの世を去ります。
 奇きしくもポール・ハリスの逝去と同じ年でした。
 (「ロータリーの源流」、田中毅PG著から抜粋)

 ※ 大衆消費社会
 大戦後の10年間は、狂騒の20年代、ジャズの時代、またニュー・エイジなどといわれるが、それらは大衆消費者会の産物であった。
 科学と企業が協力して生み出した自動車、電化製品、映画等の新しい物、文化をアメリカの大半の人が享受できる社会が出現したのである。
 20年代には米・国民総生産は年5%以上成長し続け、インフレはほとんどなく、一人当り所得は30%以上増加する!こうした経済の拡大をもたらしたのは、科学技術と産業が有機的に結合し、これを政府が支持する「現代アメリカ」のシステムであった。
 革新主義時代に整備された「現代アメリカ」のシステムは未曾有の経済的繁栄を実現したのである。
 その経済的繁栄に欠かせなかったのは、消費者として成長した中産階級の存在だった。
  (「アメリカの20世紀-上」、有賀夏紀著、中公新書より抜粋)


<ポール・ハリスから引き継がれた初期ロータリーの指導者たち〔2〕>

(5) アーチ・シー・クラムフ( Arch C. Klumph ) 第6代RIP.
 1917年アトランティック大会の際、人類のため、教育的な奉仕をなすための基金を造る必要性を強調したものが、誰あろう時の会長アーチ・シー・クラムフであった。
 時あたかも第1次世界大戦の真っ最中で、心ある人たちは戦争による精神的崩壊に深い関心を持っていた。
 その後幾多の変遷があって、今日のロータリー財団が確立されるに至った。
 彼は、ペンシルバニア州コンニュートビルに生れ、貧しい少年時代を送る。彼は大部分を独学で通した。12歳の時、家計を支えるために学校を去りましたが、クリ?ブランドの社会福祉施設で、夜学に通いながら学力の不足を解消した。様々な努力の後に、オハイオ州クリーブランドで木材会社、製缶会社及び証券会社等の社長となっている。また同市の商業会議所理事、木材販売業組合及び建築業取引所等の会長もつとめた。
 また彼は母方の家系をさかのぼると、「アメリカ小説の父」と称せられるクーパー ( James Fenimore Cooper 、1789-1851、レザーストッキング物語等)に連なるそうである。
 彼はなかなか多才であり、クリーブランド交響楽団のフルート奏者、同マネージャーとしての姿も持っている。
 彼は晩年インタビューに答えて次のように語っている。

   『わたしは心と知性の完全な調和を求めて努力しています。わたしの心は音楽にあり、知性はビジネスにあります』と。

 彼のロータリー歴は、クリ?ブランドRCの創立会員、会長、名誉会長、
 1916/17年度の国際ロータリー連合会の理事、会長、委員、委員長、
 ロータリー財団名誉管理委員(5年間)等をつとめている。
 1951年6月30日にクリ?ブランドで死去。
   → アーチ・シー・クラムフの言葉
    『寝てもさめてもロータリー』
    " thinks Rotary,, sleeps Rotary, and dreams Rotary "
 1912〜13年度 クリーブランドRC会長としてかれの紹介は、別府中央RCの鳴海淳郎氏の作成による次の資料を参照されたい。「ロータリー財団の父アーチ・C・クランフの人となり」 

(6) イー・レスリー・ピジョン( E. Leslie Pidgeon ) 第7代RIP.
 米合衆国以外から初めて国際ロータリー連合会会長になったのはイー・レスリー・ピジョンであった。
 彼はカナダ、ケベックの生れでオンタリオ州キングストンのクイーンス大学及びモントリオールのプレスビテリアン大学を卒業している。
 従って彼は宗教家で、初めオンタリオ州マーカム教会牧師となり、次いでセント・トーマス、バンクーバー、ウィニペグと転々とし、最後にモントリオールに戻り、エルスカイン及びアメリカンユナイテッド教会の牧師となっている。
 彼のロータリー歴は、1914年バンクーバーRC会員、1925年より1946年2月1日に彼が昇天するまで、モントリオールRCの会員であった。
 国際ロータリー連合会においては副会長、会長、定款細則委員会委員及び委員長をつとめた。
 また、カナダ諮問委員会委員長、国際大会会場選定委員もつとめた。

(7) ジョン・プール( John Poole ) 第8代RIP.
 会長の本拠地で国際大会を開いたのはジョン・プールが最初であった。
 彼は1918年/19年度の国際ロータリー連合会の会長をつとめ、1919年の国際大会を米国の首都ワシントンで開催した。
 彼はウエストバージニア州パーカースブルグに生れ、幼くしてワシントン市に移り、同市の公立学校卒業後、通運会社に入り、10年の下積みの生活を送った。その後信託会社に入社、次いでワシントン・シティー銀行の出納係次席となり、コムマーシャル・ナショナル銀行に移ってその出納係長となった。
 1913年に自らフェデラル・ナショナル銀行を創設し、その頭取となった。
 1933年に銀行界を去り商業及び金融弁護士となった。
 彼はワシントン市YMCA及びコロンビア聾唖学校の会計、ワシントン広告クラブ、アメリカン・インスティチュート・オブバンキングのワシントン支局及びディストリクト・コロンビア銀行協会等の長をつとめた。
 国際ロータリー連合会では1918/19年度の会長、その他理事、及び委員長等をつとめ、ワシントンRCの会員であり、会長であったが、1940年8月19日に死去した。

(8) アルバート・エス・アダムス (Albert S. Adams )第9代RIP
 アルバート・エス・アダムスは1878年、アラバマ州モビルで生れ、その公学校教育を終了してから、1899年にアトランタ市に移った。
 彼はそこで不動産業にたずさわり、次いでアダムーケーツ合名会社を造りその社長となった。
 彼は1926年12月31日に死去するまでその社長の椅子にあった。
 彼はアトランタ市の広告クラブ、アトランタ不動産会議、ジョージア不動産協会等の会長、ボーイスカウト会議長、アトランタ商業会議所理事、アトランタ及びローリーナショナル銀行取締役もつとめた。
 彼のロータリー歴はアトランタRC会員、会長、国際ロータリー連合会副会長、各種委員、1919/20年度会長等である。
  
(9) エステス・スネデコール ( Estes Snedecor )第10代RIP
 エステス・スネデコールは、フロリダ州グリーンスプリングスに生れ、アラバマ大学及びミシガン大学に学んだ。
 後にオレゴン州ポートランド市に移り、1913年そこのロータリークラブに入会した。
 彼は国際ロータリー連合会1920/21年度の会長であったが、連合会では副会長、諸委員会委員、同委員長もつとめあげた。
 彼はその会長になる以前から連合会の定款を全面的に改正することを主張し、1917年のカンサスシティー大会に提案し採用され、定款及び細則委員に指名された。
 その成案は1922年のロサンゼルス大会に提出され採択された。
 その結果、1922年6月以降に加盟承認されたクラブはすべてこの標準定款を採用することと定められた。
 職業分類の基準である60%主義を打ち出したのもこの大会である。
 この改正で、国際ロータリー連合会は簡単に国際ロータリーと改称され、今日に至っている。
 1910年より1937年まで、彼はポートランド市で弁護士を開業していた。
 そのかたわら、破産事件の審判員及び衡平裁判の特別裁判長をつとめ、、またポートランド社会福祉庁及び 社会機構会議会長、オレゴン州議会議員、オレゴン州知事顧問、破産審判員全国協会会長、旅行者援助副会長、カッパシグマフラターニチーの全国会長等であった。