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<ララ君、帰国する - アテ ローゴ!>
ララ君 帰国に思う

2003年1月31日

 <ララ君、帰国する- アテ ローゴ!>
 この一年間、いろいろな「ブラジル風ふれ合い」を楽しませてくれたララ君が帰国しました。まずはホームステイ・ファミリーの皆様に心から感謝したいと思います。2年連続の小林家、夏休みの小川家、相模原西RCの佐藤家、そして最後を受け持った今井家、それぞれ、お母さん役の奥様達には、多くの御苦労をおかけしました。重ねて感謝の気持ちをお伝えしたいと思います。さらに当クラブの各会員の皆さん!野球、スキー、諸行事等々、折々にララ君のお世話を頂き有り難うございました。
 先日のクラブ送別会で、皆様からの思い出話しを聞いていて、この一年、本当に多くの出合い・ふれ合いがあったのだなーと感激いたしました。特にカウンセラーの山本会員、青少年交換委員長の恩田会員の心配り・御尽力は、お役目とはいえ特筆すべきものでした。

 思えば長かったような、短かったような1年間でした。多くの思い出ができました。本当に良かったと思います。
 しかし、「青少年交換」は生身のふれ合い、多感な高校生、しかも外国人-生半可な気持ちでは応対できません。"異文化とのふれ合い"、それはやはり簡単なことではありませんでした。

 この1年間余の思い出を振り返ってみたいと思います。

 まずは受入準備から!それは当クラブで最初の交換学生だった鄭(ジョン-韓国・釜山、2001/02)君の受け入れに遡ります。ジョン君の受け入れはイレギュラーなものでした。
 当クラブは2000/01年度(私の会長年度)にアメリカ、イリノイ州のピオリア市近郊のモートン高校に交換学生を派遣することを決めました。県立弥栄西高校の小林貴恵さんです(彼女は帰国後、中央大学総合政策学部に進学)。そしてその交換としてアメリカから高校生を受け入れる予定でありました。ところがアメリカでは、希望者が見当たらず、「受け入れ無し-派遣のみ」で実施されたのです。
 約半年後、当時の小沢ガバナーから、その秋の「ロータリー青少年交換研究会」名古屋会議からの地区要請を受け、韓国からの初めての交換学生を受け入れて欲しいとのお話がありました。また同時期に県立弥栄西高校生である岡村孝子さんのブラジルへの、送りだしクラブになって欲しいとの要請もありました。
 《会長であった私がここで勘違い。ジョン-岡村孝子さんの交換と理解》ジョン君については難問でありましたが、大叔父様である張鐘基氏の積年の思いをうかがい、受け入れを決意することとし、理事会の御同意をいただきました。ジョン君は韓国の学制が日本と同様なので、2001年4月からの受け入れ希望でありました。しかし学校が決まっていません。そこで市内で唯一国際コースを持っている県立弥栄西高校に相談に行きました。担当の高橋先生に懇願し、何とか受け入れていただくことになりました。直前の時期の、無理なお願いではありましたが、それまでの実績のおかげだと思っています。

 3月にジョン君が来日するまでも、いろいろ準備が大変でした。まずホスト・ファミリーの選定があります。2000年7月段階で手を挙げていただいた方々も、通学可能性、その後の御家庭の事情で同様にはいきませんでした。
 結局、地区分区代理として事情に精通されていた宮崎会員(No1)、次年度クラブ青少年交換委員であった恩田会員(No2)、地区・青少年交換委員であった小林会員(No3)が受け入れて頂くこととなりました。間のない、あわただしいお願いでありました。
 また3月にはジョン君の所属コース(国際or体育)の選定があり、恩田会員には一緒に釜山まで同行してもらい、大叔父様の張鐘基さん、ジョン君の御家族と相談を重ねました。2001年4月からのジョン君の弥栄西高校での生活!大岩先生のボランティアでの日本語取り出し授業等、学校の皆様にはいろいろとお世話になりました。最初はいろいろとありましたが、夏頃からペースをつかみ、多くの友人を得て、日本の高校生活を満喫したようです。そして年末には日本語検定2級に合格!確かな自信を得て、2002年1月に帰国しました(彼は、帰国後も日本語の勉強を続け、2002年の年末に、日本語検定の1級に合格したそうです。快挙です!さらに、彼のお父様も、同検定3級に合格とのこと。すごい!)。

 さてさてララ君のことです。私の勘違いもあり、ジョン君-岡村さんの組み合わせと誤認していたところ、2月頃に地区から再要請がありました。なんと岡村さん-ブラジルからの高校生の組み合わせで、ララ君を受けて欲しいとのことです。ジョン君は、すでに半年前に渡米している、小林貴恵さんとの組み合わせ分だと言うのです。
 さすがに頭を抱えました。会員に相談したところ今井会員がホームステイを受けても良いとのこと、また2000/01年度スマイルが相当に潤沢で、次年度繰り越し分(約280万円)から、受け入れ費用(約90万円)を充当できうること等の状況から、一計を案じました。"複数ホストクラブ体制"です。
 費用はさておき、受け入れホスト・ファミリーを2?3のクラブで担当するのです。相模原グリーンRCが受け入れ主体となり、最初(No.1)と最後(No.4)を担当、中間の(No.2)、(No.3)を他クラブにお願いするのです。もちろん学校との折衝、受け入れ準備、帰国準備は当クラブが担当します。本当は費用も分担しあう方が良いのですが、最初は仕方なし!「とにかく、ホスト・ファミリーのみをお願いしよう」と考えました。まだ準備に1年近くある、最後(No.4)のホスト・ファミリーもそれまでには捜せるかもしれない。「複数クラブでの取り組み」なら現状よりは、味わいのある運用ができるのではないか?分区での順繰り担当クラブ制の問題もクリアーできるのではないか!いろいろ前向きに取り組みうる!と判断しました。そこで、理事会に提案し、方向性について同意をいただきました。

 最初は、親クラブである相模原RCに相談をしました。2001年4月に半原でのライラ・プログラムに参加し、一緒に参加していた相模原RCの松田幹事に相談したのが、最初です。ご指示通り、次は5月に相模原RCの2001/02年度青少年交換委員長に就任が予定されている、牛久保さんの御自宅にお伺いして、ご理解をいただきました。ほぼオンラインです。
 次は受け入れ高校です。私は市内で唯一国際コースを持っている県立弥栄西高校が受け入れてくれるであろう、と考えていました。実績もあります。交換学生の一人、岡村さんの在籍高校でもあります。4月には弥栄西高校を訪問し、担当の高橋先生にお願いをしました。結果は予想外のものでした。
 まず、ジョン君が非英語圏の学生で、その受け入れは大変であったこと。加えて外国人枠2名の内、すでに1名はドイツ人高校生が決定済み、同校・国際委員会(先生&生徒で構成)の希望で、もう1名は英語圏を希望しているとのことでした。ジョン君受け入れの際の御尽力を考えると、無理押しの出来ない状況でした。
 そこで代替校を捜し始めました。当地、相模原は広大な市域があり、高校も点在しています。ホスト・ファミリーの固定化をさけるという観点からすれば、市の北部の高校を選んだ方が良いのではないかと考えました。さらに受け入れ費用から考えると、授業料の特典のある県立高校となります。
 最初は古い街並の残る上溝地区を考えました。県立上溝高校は古い高校、進学一辺倒でもありません。しかも県立には珍しく食堂がある(ホスト・ファミリーのお母さんが楽かも?)。まず県立上溝高校にお願いにいきました。担当は河内先生でした。先生は国際コースを持っている県立有馬高校から移られた先生で高校生留学にも詳しい先生でした。
 開口一番、「ロータリーの交換留学は、遊学ではないのですか?」と聞かれたのにはまいりました。我々ロータリアンは、ともすれば何の疑問も抱かずに運営していますが、他の高校留学制度と比較して、評価することが少なかったからです(これについては、後日、県教育委員会でヒアリングを受け、自分なりには理解しているつもりです)。しかしいろいろと実感のある良い点、成果をお話し、ご検討を求めました。先生から会議に諮るとのお言葉を頂き、約1ヵ月のご検討をお待ちすることとなりました。そして5月下旬、再度お伺いをして結果をお聞きしたところ、NO!との御返事でした。同校では過去に留学生の受け入れ実績がなく、その気持ちがないわけではないが、最初は英語圏の学生にしたい!最初からポルトガル語の学生の受け入れは、不可能との事でした。

 やむを得ず、他の高校を捜し始めました。私なりに考え、入学前に1ヵ月はポルトガル語&日本語の学校で、日本語会話の練習をさせる事をお約束しての依頼といたしました。近接の県立上溝南高校、県立橋本高校、都県境にあり国際コースを持っている都立松が谷高校、そして県立麻溝台高校、県立大野高校、県立上鶴間高校、私立淵野辺高校、私立桜美林高校、私立玉川学園、私立光明学園と高校行脚を繰り返しました。特に麻溝台高校の谷内教頭、大野高校の溝口校長のお二方にはいろいろと御尽力頂き、心から感謝しております。また相模原西RCの伊原忍会員、相模原大野RCの座間勇会員にも御助力頂きました。
 しかし残念ながら結果は、すべてNO!との御返事でした。ポルトガル語が大きな障害だったのです。そして途中の検討に1?2ヵ月かかった学校も複数あり11月でも暗中模索の状態、お先真っ暗でありました。最早、諦めかけていたのですが(この間、相模原RCには相談できず!ホスト・ファミリーの話しができる状態ではなかったのです)、地区事務局の柚木さんから、座間市にある県立ひばりが丘高校はどうか?とのアドバイスをもらいました。
 私も県内高校要覧を何回も眺めていましたので、同校のことは、既に知ってはいました。しかしためらいがあったのです。それはサポートクラブを相模原RCにお願いしているという事でした。同クラブの会員は市域の中央並びに北部に住んでおられる方がほとんどで、ひばりが丘高校を選ぶと、そのサポートを求めるのが難しくなるからです。その場合は、市の南部にテリトリーを持つ相模原南、西、大野RCの協力要請が、新たに必要になる。果たして来日予定の2002年春に間に合うだろうか?という不安でした。

 しかし残された道はありません。非公式に南RCの受け入れ可能性を確認したりもしました。そして藁をも掴む心境で、県立ひばりが丘高校を訪問しました。2001年12月の初めだったと思います。そして校長の井上先生に諸々の事情をお話しました。そうすると井上先生が「受け入れましょう」とおっしゃったのです。夢のような一言でした!信じられませんでした!やっと受け入れ高校が決まるのです。実に9ヵ月という長い月日をかけての決定です(井上先生には本当に感謝しています!)。しかし同校の校内会議にかけて最終決定は12月末とのことでした。学校も年末、学期末で忙しい時期だったのです。決定通知は12月26日頃だったと記憶しています。

 そして続いての、入国準備書類への、受け入れ高校長の書類捺印は1月15日頃ということになりました。年末年始のバッド・タイミングでした。時間がありません。同時進行でホスト・ファミリーを決めなくてはなりません。そこで2001/02年度の佐藤会長にお願いして、2780地区第五分区の1月度の会長・幹事会に同席させていただき、経過をお話してホスト・ファミリーの依頼をする事といたしました。地区青少年交換委員長の内田さんにも同席をお願いしました。幸い相模原西RCの鈴木章仁会長から、会議終了後にその場で、受諾方向であるとの有り難いお言葉をいただきました。次は受け入れ書類の整備です。1月中旬に、地区事務局のご協力で、必要書類はすべてブラジルに送る事ができました。来日後の日本語会話スクールはいろいろ調べ、町田のICC外語に決めて交渉、申し込みを済ませました。

さてさてやっと一息!来日予定の2月末から3月初旬まで約1ヵ月、もうひとふんばりしてホスト・ファミリーを煮詰めよう。そう思っていました。そこで慶大生で東京のローテックスに所属する(ブラジル派遣)姪に頼んで、ブラジルのララ君に、電話で、来日時期を確認してもらいました。私は書類の送付も遅れており、出国手続き等で3月初旬だと思っていました。
 ところが来日が待切れないララ君は全ての手続きを済ませており、最終書類が届いて直ぐに訪日と考え、飛行機のチケットも手配済みだったのです。学校が早く決まっていればこんなズレはなかったのですが、彼のいう来日予定日は3日後(2月4日)だったのです。やり様がありません!とにかくファースト・ファミリーが困難です。3月からなら、1ヵ月あり、相談の仕様がありますが、3日後です。来日を遅らせないかも聞きましたが、飛行機のキャンセル料を多く取られるとのことです。

 肚を括って家族に相談しました。実は4日後に家族で京都旅行をする予定でした。妻は激怒し、父母からは諌められ、子供はあきれ顔!どうにも苦しい立場!初日は相手にもされません。仕方なく2ヵ月別居して学校の近くの鶴間にアパートを借り、ララ君と住もうかと考えました。
 翌日一人で鶴間の不動産屋にアパートを捜しに出かけました。鶴間に到着した頃に、家から電話があり、しょうがないので受け入れるとの事でした。私が出かけた後、家族会議、妹と姪も加わり決断したとのことです。今思い出しても、苦しい気持ちです。

 それからは大車輪で受け入れ準備、ベッドを買い、スタンド等こまごました物も揃えました。成田には妻、娘、姪、妹がつきあってくれ、出迎えにいきました。そして到着の翌日から京都旅行-家族旅行が化けました。

 このようにしてララ君の日本での生活が始まったのです。ICC外語だけでは時間を持て余すので、相模原大野RC の吉田雄二会員のお開きになっている、合気道の道場"雄心館"の年間会員にしてもらいました。会話学習と日本文化でもある合気道のセットです。春休み、まだ学校が始まっていなかったので、ロータリーの例会には必ず参加してもらいました。ディズニーシー、ズーラシア、鎌倉、河口湖等の近隣の観光地訪問、お花見、ブラジルレストランでの会食といろいろなふれ合いも楽しみました。
 しかし、学校までの2ヵ月間!友達もまだ出来ず!彼も寂しく、心細かったのだと思います。強いホームシックにもかかりました。特に次のホスト・ファミリーがなかなか決まらなかったのが、大きな不安だったと思います。この間家族も巻き込まれ、泣いたり、怒ったり、そして笑ったりと揺れ動いた春でした。ララ君にきつい言葉で叱った事もあります。ローテックスの姫野さんにお世話になったのもこの頃です。揺れ動く「来日直後の彼」を、どこまで支えきれたかは自信がありません。しかし精一杯ではありました。3月中旬になり各ホスト・ファミリーが決まってからは彼も安定してきました。

 ちょうどこの頃クラブにパレスチナからの難民の子供達が来日しており、彼等との交流も楽しんでいました。3月の終わり、彼が次のホスト・ファミリーである小林家に移る日に、私が彼に言ったのは「大きな目標を持て!」という言葉でした。適当に1年を過ごすのではなく、チャレンジブルな目標を持つ事!これが受け入れ校捜しの際、上溝の河内先生にいわれた「ロータリーの留学は、遊学なのでは?」という問いかけに対する、答えだと信じるからです。
 彼はその後、各ホスト・ファミリーの暖かいご支援・ふれ合い、ひばりが丘高校の先生たち(特に日本語コース)の適切な御指導・フォロー、学友の楽しい輪の中で成長し、最後は日本語検定3級にも合格し、充実した留学生活を全うした訳です。
 "前年の制度をただ何となく踏襲する"、"適当に何とかやってよ!"と言って交換学生を受け入れるケースも多く見られます。しかし失敗も少なくないのです。何のためにやるのか、何が目的なのか?若い高校生のかけがえのない一年、それを背負う事の重さと覚悟なくしてこの制度の意味はないと信じます。「一期一会」、「時は命」、その思いがあってこそのロータリー留学なのです。

最後にララ君に一言!
 A quem quer , nada e dificil (願うものには、何も難しくない!)


平成15年1月 原幹朗