|
|
↑ トップページへ ↑ |
相模原グリーンロータリークラブ 第648回例会週報 |
|
|
647回 | 649回 | 2005-06週報目次 |
◆「イニシエイション・スピーチ」◆
大沢 重人 会員
私のこれからの、ささやかな目標について
この度に入会させていただきました大澤重人と申します。出戻りな私を、暖かく迎え入れていただきまして深く感謝申し上げます。今日は、入会スピーチということなので、私が、どのようなモノであるのか、主として趣味嗜好の面から披露させていただくことにしたいと思います。私は、昭和28年4月3日生まれで、53歳になりますが、私を今解剖すれば、次のようなキーワードがそこかしこの部位に烙印されていると思うのです。上草甚一、ベーカー街221B、356、38FD、マーク6、パーラフォン、1500番台、ランサー101、アーサーCクラーク、司馬遼、アルクーパー、ナベサダ。一つひとつの説明は、スペース上割愛させていただきますが、それらいくつかにピンとこられた方は、私がどんな奴なのか、もう解られたことと思います。本日はその中で、今の私の重要な位置を占める、音楽活動について「こうして、今の私になった」お話をさせていただきます。
昭和39年(1964年)の頃に遡りますが、日本中をエレキブームが飲み込んでいました。小学五年生の私は、耳に入るエレキギターの音に、まさにシビレてしまいました。完全にエレキサウンドが頭の中を支配したというわけです。世間は、「エレキをやるなんぞフリョウ!」と決めつけていましたが、私は抑えきれず、勇気を出して、ヴェンチャーズのレコードを買って聞き出しました。母親が、音楽に理解があったのが、ありがたかった。スピーカーに耳をつけて、どんな音でサウンドが構築されているのか、聴いていたら、音楽がほんとに好きになってしまいました。その後、ビートルズやニューロック、と特に洋楽ロックの進歩と供に私も進歩してゆき、やはり行き着くところは、ジャズでした。多感な高校時代、ジャズバンド(らしきもの)をやったりしていました。楽器は、ギターだったわけですが、ジャズのメインの楽器は、やはり管楽器なわけです。しかし、管楽器は、周りに伝手がなく、遠い存在でした。そんな中、スウィングジャーナルなどを読み漁ったりもしていたところ、植草甚一の独特なエッセイの虜になってゆきました。ジャズレコードの買い方、聞き方、感性、生き方のスタイル、何もかも影響を受けてしまいました。1970年(昭和45年、高校2年)に出た「ぼくは散歩と雑学がすき」というタイトルのエッセイをまとめた本は、植草甚一教のバイブルで、読みふけて電車で乗り過ごしたことを思い出します。その教えのなかに、「レコードは、ジャケットで買うべし」というような文章があり、私は、それで買ったと思われる、一枚のレコードに出会うことになりました。昭和45年8月3日、池袋ヤマハで、飾ってあった、素晴しいジャケットの「チャーリーパーカー・ウィズ・ストリングス」を買って帰り、その衝撃をノート(数年前見つけました)に書いていました。なんと美しいんだろ、なのにスリリング。早速、アルトサックスを手に入れましたが、これから大学に行ってジャズ三昧の生活には、どうしても赴けませんでした。そのサックスをライトミュージックオーケストラに入る友人に譲り、いつの日か、自分もアルトサックスを吹きたいなあと思いつつ、あえて、音楽全般に亘る音楽ファン、リスナーで収まってゆくことを選択し、日常の日々が過ぎてゆくことになりました。
30代の忙しすぎる時代を過ぎ、40歳になった時に、このままなにもしないでいたら、アッという間に50歳だなと思ったら、いてもたってもいられなくなり、近くにあつた、ミュージックスクールに足を運んでいました。しかし、始めたのは、見学に行ってから一年を経てからでした。続けられる勇気がなかったからです。ともかく、始めましたが、これまたアッという間に5年経ち、気がついたら、一人ではろくに吹けないことに愕然としました。もっと気持ちを入れて、目標もってやらねば、と丁度思っていたところ、中学時代からの友人でベースをやっていた川田(建築家)が仲間を引き連れてきて、ライブをやろうということになりました。私は、先の「チャーリーパーカー・ウィズ・ストリングス」の中の特に思い入れの深い「エヴリシング・ハプンス・トゥーミー」という曲を是非やりたいと思い必死で、音取りしてみました。大変でしたが、楽譜の理論的なこととかも少し分かってきました。平成11年秋、町田のライブハウスと江戸川区船堀の市民会館で行われたギターの精神科医の先生(嗚呼今はもういない!)主催のチャリティーコンサートで、バンド名エヴリシングハプンスとして演奏しました。いくつか、私が提案した思い入れのジャズの曲をやりました。そこで感じたのは、確かに吹きたいナンバーが曲りなりにも演奏できてよかった、しかし演奏の充実感は何も得られず、むしろイヤになってしまった、といものでした。壁は厚かった、目標は高すぎたことを思いしらされたのでした。もう一度、ジャズを白紙から学ぼうと決心したのです。そして、若いプロの先生に付くようになりました。これらの変遷の中で、心酔していったのが、ナベサダこと渡辺貞夫でした。アルバム「ランデブー」以後のナベサダは、ほんとに素晴しいです。アフリカ、ブラジル、もちろんアメリカとの交流を保ち、昨年は、愛知万博での日本の音楽の総監督を務めるなど、日本が誇る世界の音楽家にしてジャズミュージシャンです。彼は、今年で72歳、毎年前半は、小さなライブハウスの全国ツアーを行っています。そのときに私は、最前列目指して出かけるようにしています。今年も先月、2夜とも聴いてまいりました。進歩を続ける神様がそこにいる、涙が出てきます。インプロビゼーションに基づくアドリブもディテールにこだわった瞬間が繰り広げられてゆく、嗚呼こんなジャズやってみたい、心底思ってしまってる自分がいる、何としても、60になったときには、と願っている。あと7年しかないゾッ!!!