相模原グリーンロータリークラブ
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第521回例会週報

520回 | 522回 | 2003-04週報目次
◆モノづくりはネガティブな発想から
石川次郎 氏

<石川次郎氏プロフィール>
1941年7月5日生まれ。早大・商卒。
スター編集者(平凡パンチ、ポパイ、ブルータス、Tarzan等)
として知られる。テレビ朝日の「トゥナイト2」のキャスターも。
常に若者文化とトレンドを先読みし、カタログ的な編集手法と
特集主義という、新しい雑誌スタイルを定着させた。

「モノづくりはネガティブな発想から!!」

 本日はお招きいただき、ありがとうございました。
まさか国家斉唱で始まるとは思いませんで、これを聞いて当初お話ししようと思っていたことを止めました。まじめな話をすることにいたします。
 今井会長は私が仲人を努め、また歯の主治医をやっていただいておりますが、ロータリーの活動のことは全く知りませんでした。

 さて、テレビというのは恐ろしいもので、町を歩いていると、「あ、トゥナイト2のおやじだ。」と言われますが、私自身はテレビには縁が無く、今だに雑誌の編集者でそういう仕事をしています。
 私の一生の仕事は、プリントメディア、特に雑誌の編集の仕事、またそれしかできない人間だと思っております。
 51才の時、自分の力で世の中で勝負したい、と25年努めた会社を退職いたしました。自分の会社を持って数ヶ月後、テレビから電話があり、テレビの企画の仕事かな? と思ったのですが、実は出演の交渉で、びっくりしました。
 私には出来ない、とお断りしたのですが、非常に誠実なプロデューサーで口説き落とされまして、結局1年のつもりが8年もやってしまいました。

 もともとテレビは雑誌媒体の敵でして、昔はカラーではないし、大したメディアとは思わなかったのですが、カラーになり爆発的に普及すると、根こそぎ読者を取られそうな状況になりました。
 先にも申した様に、私はいつも頭の中は雑誌のことでいっぱいでして、その時でも雑誌が生き残るには? とテレビの弱点を捜索していました。
 気が楽になっったのは、初日スタッフルームに雑誌が山積みになっているのを見て、ははあ、テレビのネタは全部雑誌からとっているんだ、とわかり、テレビと付き合うのが楽になりました。

 私は23才から雑誌の編集に関わっており、平凡出版という会社に入りました。編集者としての本格的なキャリアは「平凡パンチ」が最初でして、これはたいへんな成功を収めました。
 平凡パンチは1964年の創刊で、当時は若い男達の週刊誌はなく、おしゃれ、車、ファッション、そんなもので成立するはずがないというのが通説でした。
 ところが東京オリンピックの年に出して、創刊号は67万部すぐ完売でした。

 この平凡出版に25年勤めたことによって教えられたことは、どこかの会社がやったような、後追いは許さなかったというパイオニア精神です。
 普通、一つの雑誌が成功すると2番、3番が出て来ます。柳の下にどじょうが何匹もいるという業界でした。ところがこの会社は、絶対人様のマネはするな、パイオニアでありたい、とこだわり、社員も入社した瞬間に洗脳されます。
 ですから、編集長は常に手探り、サンプルもなければお手本も先生も無い、マーケットも見えないというスタートとなるわけです。25年の勤務時代に5誌ほど創刊をまかされました。これは非常に恵まれていると言えます。

 1977年ポパイという雑誌を創刊しました。これは従来の男性雑誌のコンセプトを根底からひっくり返す雑誌を作ろうということでスタートしました。
 それまでの男性週刊誌の成功のパターンは、可愛い女の子の写真、車、軽いセックスの記事、劇画でした。でもよくよく考えてみたら、男の興味の幅は、もっと広いはずで、誌面にこれをどう定着させるかが勝負となります。
 創刊号は半分以上返品となりましたが、ひとたびスタートすると止められない、ただ本が売れない、ということがつらい要素になりませんでした。これはボスの環境づくりのうまさ、成功のイメージの作り方が優れていた、ということで、間違いなく売れる様になる、と楽なイメージで仕事ができました。

 ここでは常に新しい雑誌を要求されるわけで、次は東京中心の、雑誌、首都圏しか売らない雑誌を創刊しました。これが「Hanako」です。通常、雑誌は全国同一発売が原則 広告を出稿する企業も集めやすい、ですから誰も首都圏だけとは考えないわけです。首都圏だけしか売らない雑誌を作ろう、となると編集企画の内容がだいぶ違ってきます。
 例えば渋谷の特集は、北海道の稚内では反応しませんが、逆にせまいエリア特集がやりやすくなる。おもしろいからやってみようということです。

 そんな中ある時考えたら、この会社はわざとネガティブな要素、ネガティブな部分を持ちながら企画を立てる会社じゃないか、と気付いたのです。
 世の中ポジティブに考えるというのが普通の進め方ですが、モノづくり、クリエイト、発想の段階では必ずネガティブな要素がつきまとうわけで、それが欠けていては、新しいものになり得ないのです。
 雑誌を提案する時、わざとネガティブ要素を考えるのが大事だと思います。

 ここで「ターザン」を紹介しますが、これが今たいへん売れています。1986年創刊ですが、会社の指示は「健康雑誌を作れ。」とこれだけでした。3週間どうやってつくったらいいか、人にも相談できないことで、自分で考えに考えましたが、ある時パッとひらめきました。
 従来の健康雑誌を読んで、なんだこれは、健康に自信がない人のために作っている、恐怖心を刺激しながら作っているなあと、これはすべて病人、もしくは病人予備軍が読者ターゲットじゃないかと。だったらそうじゃない、健康を謳歌している人に、健康に喜びを感じている人対象の明るい前向きな雑誌を作ればいいんじゃないか、さらに健康を増進させる、あるいは健康の喜びを持続させる、という情報の雑誌は全く違ってくるんじゃないか、と気が付いた、ですのでその方向で編集しました。
 結果的にはポジティブになるんですが、発想の段階では、健康な人に買わせるというのは難しいのでは? と考える、つまりネガティブな要素からスタートするわけですが、ある時、読者にわかってもらって、このネガティブな要素があるとき逆転して、健康を維持するためにこの雑誌が必要なんだ、とポジティブな要素に変わるんです。
 あ、これでいいんだ、新しい雑誌作りのコツを会得したかな。。。という境地になりました。

 商売はあんがいそんなとことがあるのではないでしょうか。
ビジネスの大成功は、最初たいがいネガティブ要素が強いところからスタートしてそこを克服して大きくなっていきます。

 最近の例では、六本木ヒルズにいっぺんに6軒レストランを開いた月川という友人がおりまして、彼は非常に優れたビジネスマンで、私は彼がどういうビジネスをやるか注目していました。
 まず彼は、若者がたくさん集まるような、センスは良いがものすごく安いエコノミカルなレストランを作った。ここは家賃が高いので私は当然高級なレストランを作るかな? と思ったら違うんですね。
 他の5軒すべて紹介できませんが、逆に一番高いのは北京にある「れいかさい」というのを持ってきたんですが、3つしかテーブルが無い、一テーブル最大8人として一日24人でいっぱいです。そこの客単価が一人2万5千から4万円5千円、それでコースしか出さないんです。ここは中国の家庭料理の店なのですが、北京の店のシェフは西太后に仕えていた料理人の末裔、つまり宮廷の家庭料理、そこが売りなんです。
 そういった付加価値を売る。たった3テーブルで数ヶ月先、しかも4万5千円のコースで予約でいっぱいです。
 大きなスペースで安いレストランをやる一方、小さなスペースで超高級なものをやる、何か私の雑誌作りに共通しているんです。最初ネガティブな要素を全面に出してそれを話題にしてお客を引っ張ってくるんです。

 仕事は楽しくやりたい、何かユニークな仕事になればなるほど長続きさせるのが最大のテーマとなります。その時に必要なのは、人がやっていないことをやってやろう、という発想、これがたいへん重要なんじゃないか、気持ちがとても大事なのではないでしょうか。
 長年努めた会社を辞めてしまったのは、管理職がいやで本能的に逃げてしまったというところがあります。現場が好きで今またその現場でやっているのですが、その原動力は、何か人がやってないことをやってやろう、何か面白いことを仕掛けてやろう、自分の中にそんなパッションがあるからじゃないかと思うんです。
 世の中とうまくコミットしながら人生を楽しく過ごす、というのは何かを持ってないとできないと思うのですが、私の場合は、人様のマネはするな、自分のオリジナリティを常に持て、自分で考える、という習慣が体の中に染みついてる、それがいろいろと仕事をいただけることにつながっているんじゃないか、と最近つくづく思うしだいです。

 30分という時間は非常に難しいのですが、私が人生の中で常に考えていることをチラッとご披露いたしました。
 今日はご招待くださいまして、ありがとうございました。