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相模原グリーンロータリークラブ 第805回例会週報 |
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2009-10週報目次 |
◆「裁判員裁判について」 伊藤 信吾 会員 |
裁判員裁判は,5年前に突然法案化された制度です。特に刑事事件の裁判に国民的批判がない中で制度かされていて,司法の現場はとても慌ただしくなっているのが実情です。裁判所も,検察も,弁護士も,裁判員として呼ばれる市民も,被告人も,皆,裁判員裁判については賛成しているとは思えません。ただ,制度としてできた以上は,とりあえずやってみて,問題点を改善していく方向が良いと思っています。 |
◆年度始挨拶 福山 茂 幹事 |
「カムイ伝」は漫画家白土三平の作品で、江戸時代の社会で最下層にあった庶民からの視点で当時の世相や風俗を見る作品です。 時代背景は、江戸時代の初期で、主な登場人物は架空の藩、日置藩の3人の少年非人の子カムイ、農村の子下人正助、下級武士の子草加龍之進である。 カムイは、穢多村から脱して剣の道を究めようとするが忍びの世界に入る、正助は、本百姓になろうと農業技術を磨いていく過程でそれが日本の農業革新につながってゆく、龍之進は、日置藩主の陰謀によって草加家が滅ぼされ復讐の旅にでる。 カムイ伝第一部、第二部は正助及び当時の江戸時代の歴史状況が中心で第三部の「カムイ外伝」は忍者カムイをめぐるアクション劇画である。 百姓の生活がかなり厳しく書かれていますが、フィクションです。 ―――― 江戸時代のマニフェスト ―――― 1) 地方分権 (中央政府・徳川幕府と親藩、譜代・外様の300の藩) 良い面 ・地域の殖産興業 漆(漆器)・楮(こうぞ)紙を作る・紅花は染料、桑は、蚕を飼い生糸を絹織物に仕上げた。 新田開発等々 悪い面 ・飢饉 「四代飢饉」・天明の飢饉・享保の飢饉・寛永の飢饉・天保の飢饉 2)身分格差 (士・農工商・穢多非人) 図1・2 一頭の牛が死んだ、農民たちはそれを「草場」というところに持ってゆく決まりになっていた。 知らせを受け、穢多たちが牛を引き取りに来る。 図3・4 河原に運んで牛を逆さに吊り、腹を切って腸を取り出し、川の中で中身を洗う何度も吐きそうになる、内臓を取り出し皮を傷つけないよう肉からたくみにはがし図5.なめし図6、川で何度も洗い図7、商品にする。 3) (循環型社会)都市と農村;消費地と生産地;下肥と野菜 図1〜3 若い百姓の夫婦が、便所の汲み取りにやってくる、市場で野菜を売った帰りであった。夫婦と見えたのは実は男装した代官の娘さやか、その恋人である百性の娘かよ、江戸時代は「ゲイ」は普通の生き方であった。 図4〜5 正助が下肥や水を畑に頻繁に運び、土を肥やすこと、これは百姓の基本中の基本であり、江戸時代の都市生活を安全で清潔なものとし、ものを無駄に捨てることなく循環型社会である。土を肥やすための努力を、ここから知ることができます。 図13〜15 農業技術の飛躍的な向上である、新田開発や塩田、煙草や茶の栽培等の工夫されていた。 刈り取り後、稲こき機械の発明、桑の育成、養蚕と絹糸作り下肥システムの確立や綿花栽培のくだりなど、非常に感動的である。農民は、米や野菜や保存食のみならず、家を作る、屋根のカヤを育てる、竹で各種の道具を作る、布を織る、さまざまな工夫で何でも修理する。個人能力が高い、村の経営に関しては、辛抱強く時間をかけて人と話し合い、全員一致の結論に達するまで、何日も話あった。 多数決は、最後の方法ではなく、二の次、三の次として用いた。寄合という村の議会 4)環境(新田開発と山林開発:洪水と森林破壊) 図1 「思いもよらぬできごとは、ほんのささいなきっかけから起こるものである」と始まるシーン一羽の鷲が空を飛んでいる、その鷲が眼下に見た情景は、延々と続く伐採された木材の墓場である。 ―― 沈黙の春 図2〜6 間もなく雨が降る、豪雨は山を直撃し、木を切り倒した後の切り株を打つ水は地面に吸収されないまま急流となって、裸の山を流れる。土砂と合流して巨大な川となってさらに速度を増すシーン。国土の7割が山である、その山は、江戸時代の日本人にとって、唯一のエネルギー源であり、衣食住の源であった。だからこそ伐採をくい止めねばならなかった。 江戸時代にすでに起きている人間と自然の共存の矛盾に迫っている。 5)一揆と浪人対策 一揆は、江戸時代に入ると、日常化してきた、一ヶ月に1回あった。 一、 徒党を組み、頭を中心に契約文字、起請文を作り、署名する円形のかさ連判状を作成し、円形を作ること、首謀者の逮捕を逃れた。 二、 愁訴言葉に窮状を訴える段階であるが、要求事項とその理由を記載した、「百性申状」を読み上げした。 三、 越訴の手続きの段階で飛び越しておこなう訴える場合は、代官へ訴えるべきものを、領主だったり、幕府だったりする。 図17〜19は、強訴 集団で直訴すること、愁訴、越訴が受けられななかったから、集団で訴えて押し掛ける、打ち壊しがおこなわれる場合である。 庄屋や豪農豪商など家屋や家財を破壊する。 五、 逃散 田畑を捨て、他の土地に集団で移住する。 図13〜15 堀田正信は旗本の困窮を救うためとして、領地10万石を返上し幕府の許可なく帰城し、幕府批判の上書を提出する。確信的な批判分子である。 その結果、配流となって自殺する。 図11 熊沢藩山「大学或門」 伐採の禁止 計画伐採 造林を主張する 6)教育 図20 正助が「草刈」を巡って争い、見事正助の策略で成功した後の会話男の子が、なんでいろいろな策略が生まれるのか訪ねている場面正助が学問のおかげだと答える。 図21 正助により秘密の夜間講座「寺子屋」の前進ができる。 図9〜図10 肥料に関する情報伝達を重要な要素だった。 江戸時代の庶民階級への教育が、急速に広まり識字率を上昇させた時代である町田市相川町は、かつて道に沿って 雛びた小さな村であったが、幕末には五つの寺子屋があった。 「飢饉」 江戸時代 四代飢饉 天明飢饉(1782〜87年)全国で30マ万〜50万人の死者であった。弘前藩 人口の三分の一が餓死、逃散したものを含めて人工の半分が減った。弘前藩では、不作であったにもかかわらず、大阪商人からの負債を返済するために、徴税の手をゆるめなかった、そのことで「種モミ」まで不足し翌年の不作を、深刻化させたのである。 米沢藩(上杉鷹山)1752〜1822年)藩主だった米沢藩は、餓死者がなかった。白河藩(老中松平定信)寛政の改革・早めに米を市場で買い占めておいたので、被害がすくなかった。つまり、このような広範囲での不作のときには、中央政府が全国的な状況を把握し対策を打っていかなければならないのに、個々の藩に任せた結果他藩の迷惑をかえりみず、買占めを行って囲い込んだところだけが助かったという悲惨なことになったのである。 享保の飢饉(1732年)干ばつをきっかけに、西日本でイナゴが大発生し、被害を深刻化したのだが、このときも全国の餓死者の3割出した。 伊予はそうめんが名物となっている麦の裏作が盛んで農民は自分たちの食糧のかなりこれによっていた。1732年の3月が天候が不順で、6月に「ウンカ」が発生して青草一本も見いだせないほどに、7月に城下に農民が救いを求めて流れこんできたので、藩当局は取り押さえこんで、追い払うしかなかった。無為無策の極みで藩主は、「不行届」で交代させられた。地方分権というが、幕府は江戸など天領のことだけしか、考えずに地方を見捨てるだけで、飢饉で餓死者が出ても地方の責任で済ませていたのである。 (徳川吉宗の時代) 天保の飢饉(1833〜39年)寛永の飢饉(1642〜43年) 上杉鷹山 1961年第35代大統領ケネディが日本の尊敬する政治家日向(宮崎県)藩二男10歳で養子になる 米沢15万石引き継ぎ殖産興業を進めた。漆器 こうぞ(紙)桑(生糸)染料の紅花 格差 身分格差 階級格差 もっとも甚だしかたのは、武士階級で藤沢周平の時代小説が映画かされるようになって最近しられるようになった。 「カムイ伝」アイヌ語で神 カムイ伝の景色は、花巻村の風景があります。自分たちの手で、家を建て、屋根をふき、水を引き、道具を作り、田畑を開墾し布ををり、仕立てあらゆるものを修理する能力を持っている農民たち、自らの工夫で桑を栽培し、養さんを試み、便所を作り、下肥を確保し、綿花を育て新田開発をおこない、商人を巻き込んで流通を押さえ、圧政に対しては一揆で対決する、そのような百姓を「カムイ伝」は描いている。 |