相模原グリーンロータリークラブ
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相模原グリーンロータリークラブ
第762回例会週報

2008-09週報目次
◆「ロータリー米山月間にあたって」
田沼勝一 地区米山奨学委員長

  現在日本のロータリアンは、個人で、クラブで、地区で、そして国際ロータリーやロータリー財団のプログラムを通じて、さまざまな活動をしています。そんな中にあって、日本のロータリー独自の活動としては、「ロータリー米山奨学金」を第一に挙げることができるでしょう。この奨学金の名前は、もちろん日本のロータリーの創始者である米山梅吉氏に由来するものです。
 第2次世界対戦中に国際ロータリーから脱退した日本のロータリーは、1949年に復帰しましたが、残念ながら、米山梅吉氏は、それを待たずに、この世を去りました。

 米山奨学金の制度はどのようして生まれたかは、『東京ロータリークラブ50年のあゆみ』に見ることができます。
 1952〜53年度の会長は古沢丈作、就任早々、会員はその誕生日の週間の例会に、夫人を同伴しようと、フェミニストぶりを発揮しての提案で、会員をびっくりさせたり、又、1953年3月15日の例会では、例会時間の15分延長を即決する離れ業を演じたものである。前者は実行されず、後者も永続きせずに終ったが、彼が残した業績の中で、米山基金の設定は燦として輝いている。

 これは、米山梅吉が、生前、東南アジアに深い関心を持っていたことから、ロータリー財団の奨学制度に模して、年2名の奨学生を、アジア諸国から招致しようとする計画であった。米山奨学制度は、1952年12月3日に、成案が可決され、翌年の2月25日に、募金計画が決定し、目標を260万円において、会員及び会員関係事業所から、2年継続の據金が募られた。面白いことに、その寄付第一号は、アメリカ人から寄せられた。当時、わが例会の“常連”で、バージニア州のロータリアン、ウイリー・ネルソンが、3月15日の例会で寄付してくれたものである。国際奨学事業の発足には、まことに相応しい情景であった。

 もうおわかりのことと思います。米山奨学金は、最初、東京ロータリークラブ(RC)のプログラムとして始まったのです。当時は、米山基金という名称で呼ばれていました。現在、日本が誇るべき、この米山奨学金の第1号の寄付者が日本人ではなく、アメリカ人であったことは、あまり知られていないでしょう。

 現在では、海外から日本に留学している学生の中から、奨学生を選んでいますが、最初は、現地で留学生を選考し、その後、学生が勉学のために来日しました。この米山奨学生の第一号、いろいろなところで紹介されていますので、ご存じの方も多いと思いますが、タイのソムチャード・ラタナチャタ氏です。
 『ロータリー米山記念奨学会史』には、
 バンコクのロータリーでは国際奉仕委員長ギールミデン氏(N. Geelmyden)、ついでプレムプラチャトラ殿下(Prince Prempurachatra)が中心になって、米山基金による対日留学生の選考が慎重に進められた。
 その結果、バンコク近郊バンケンのカセツァルト農業大学を卒業したソムチャード・ラタナチャタ君が最終的に選ばれて推薦されたのであった。当時25歳のソムチャード君は養蚕学、果実の栽培と保存を日本で勉強したいと伝えてきた。
 それは歓迎すべき第1号の留学生ではあったが、委員たちの苦労も始まった。日本の大学への入学手続き、渡航、入国の世話など、クリアしなければならない難事がたくさんあった。たとえば、旅費の外貨払いにしても、当時は大蔵大臣(佐藤栄作)に申請し許可を求めなければならないという面倒な時代であったのである。

 しかし、委員たちの東奔西走の結果、東京大学農学部および大学院に入学許可の内諾が得られた。宿舎は国際学友会からの提供を得、受け入れ態勢が整ったのである。慣れぬ仕事の連続を米山奨学委員たちは、持ち前の奉仕の情熱で乗りきったのだった。
と、最初の留学生を迎えるまでの経緯が書かれています。2人目の奨学生も海外で決定し、来日をすることになっていたのですが、実際には、少し状況が変わっています。

 『東京ロータリークラブ50年のあゆみ』には、 ジョージが来日しないために、余裕が出来た米山基金を、どう活用しようかと考えている折柄、東京大学で水産資源学を勉強していた、インド人学生、P. K. イーペンが、学資杜絶のため、学業半ばで帰国寸前にあることが判ったので、彼に、米山奨学金を支給することを即決した。同じくインド人学生で、東京水産大学に在学した、A. B. ロイも、つづいて、米山奨学生に採用した。

 米山奨学事業は、もし成功すれば、これに、他のロータリークラブの参加を求め、ゆくゆくは、全国的事業に発展させたいというのが、当初からの構想であった。ソムチャードを通じて、タイのロータリアンと結び得た喜びもさることながら、二人のインド人学生を“現地採用”することによって、新しい奨学制度が生れ、それによって、より計画的に、米山奨学事業を推進出来る見通しがついたのである。

 これならば成功するとの自信を得たので、他クラブへの呼びかけが始められた。その結果、当時第60及び62地区では、この東京クラブの奨学事業を継承するために、1956年地区大会に於て、その支持を決議した。即ち、地区内ロータリークラブは、会員一人当たり、年600円の寄付を決定したのである。

 翌年、米山奨学会が設立され、初代委員長には、常に蔭にありながら、この事業の真の推進者であった、小林雅一が就任した。この米山奨学会は、関西以西のロータリークラブが、ぞくぞくと参加するに到って、名実共に、日本のロータリーの大事業となった。1967年7月には、財団法人ロータリー米山奨学会となり、今や、米山奨学生数が年100名という、一大国際奨学事業となっている。
と、その事情が載っています。このようにして、米山奨学金は、東京RCの活動から、日本全国のロータリークラブの活動へと発展をしていくこととなりました。前出の『ロータリー米山記念奨学会史』には、

 東京RCの「米山基金」による奨学制度は3名の留学生への給付終了をもって終結することになった。前節で紹介したソムチャード、イーペン、ロイの諸君であった。 もともと米山基金設立当初から、この国際事業は全国のロータリークラブ全体の活動としての展開が考えられていたのである。であるから、「米山基金の終結」とはいったが、3名の留学生への援助を成し遂げたという実績をもって、新たなる展開が模索される時期が到来したといい直すほうがよいだろう。
と書かれています。さらに、 1957(昭和32)年9月、新組織のための試案が穂積重威によって24条にまとめられた。それに対して、9月18日に招集された第60地区および第62地区内の各クラブ会長による熱心な審議が行われ、新組織が決定された。

 新組織は名称を「ロータリー米山奨学委員会」とした。そして同委員会は将来、財団法人に組織されることを前提として規約化されたのであった。
 委員は参加クラブから、会員数50名または26名以上の端数につき、米山奨学委員を1名選出することとし、常務委員を委員の互選により、委員長ほかの役員は常務委員による互選によって選ぶことになった。
 東京RCの小林雅一が初代委員長となり、初期メンバーが選出された。(中略) そして、ロータリー米山奨学委員会規約の主要点は、次のように決定された。

<目的>
 主旨において、あとの財団法人ロータリー米山記念奨学会と同様であるが、
(1)外国からの招致を主体とし、在日留学生を第二義的に取り扱う
(2)ロータリークラブの推薦を必須条件とする

という内容で、現行の制度とは少し違っている。しかし、実際の運営面では在日留学生のみが選考対象とされた。また奨学期間は2年と規定され、場合により延長を認めることになった。これは「米山基金」による奨学経験が生かされた結果であった。

 このような規約を決定したうえで、1957年12月18日に第1回の常務委員会が開催された。この時の収支決算報告書によると、当時すでに第350、355および360区に分割されていた旧第60および62区からの寄付金合計額は153万1,200円に達し、利息収入を加えると収入総額は154万3,215円になった。
と、現在の「ロータリー米山記念奨学会」ができるまでの経緯について触れています。

 記念すべき最初の奨学生は、アブ・シード・ムハメッド・シヤヒード(パキスタン<現、バングラデシュ>/東京工業大学繊維工学科)、ニュエン・ダイカ(ベトナム/京都大学物理学科)、ヘルマン・スカルマン(インドネシア/東京医科歯科大学)、ホセ S.コンセプション(フィリピン/東京工業大学理工科)、陳普章(香港/九州大学薬学科)、ササン・ジャバン(イラン/東京大学電気工学科)、S.S.ジャヤシンハ(セイロン<現、スリランカ>/東京大学農業工学科)、スポット・テシャワロー(タイ/早稲田大学商学部)です。

 東京RCが初めて米山奨学生を誕生させてから50年の歳月がたちましたが、今では、日本でなくてはならない奨学事業として成長しました。ロータリー米山記念奨学会では、その折々の社会的背景やさまざまな事情を反映し、その制度を変更してきました。新しい時代にふさわしい奨学事業にすべく、さまざまな視点からの見直しが進められています。新しい制度は2006年にスタートします。

引用文献
東京ロータリークラブ創立50周年記念事業委員会『東京ロータリークラブ50年のあゆみ』1970年
ロータリー米山記念奨学会史委員会編『ロータリー米山記念奨学会史1967〜1992』 1992年