相模原グリーンロータリークラブ
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相模原グリーンロータリークラブ
第740回例会週報

2007-08週報目次
◆「明治維新の闇」
大澤 重人 会員 

 本日は、今現在私を虜にしてしまった、志士46人の写真とそれにまつわる陰謀(?)について書かれた本のことを中心にお話しさせていただきます。

 日本の近代の始まりは、1853年のペリーの浦賀沖来航である。欧米では、1600年以降、主として香辛料を商売とする東インド会社にみられるように、先進諸国は、世界を股にかけて貿易が始まっていた。そして、1760年頃から、いよいよ英国産業革命が始動し、世界は、莫大な資本投下による巨大な利潤を求め大量生産大量消費を目指す夢と希望のバラ色に見えるパンドラの箱の社会に入っていった。その後、世界は、更に、市民の自由と平等を勝ち取りながら(1776年米独立戦争、1789年仏市民革命)、当時の未開国を同じ土俵に引っ張りこんで、同じ夢を持たせるのが善と考え、おせっかいにも未開の国、取分けアジアや中南米に、土足でこそ入り込まなかったが、いや緻密綿密周到な策略をもって押しかけた。その為には、当然、当時の段階で、向かう国の可能な限りで全部の情報は掴んでいたのである。もちろん日本ついても然りであった。

 わが国は、当時の政権担当徳川幕府の新時代に向けての政権担当能力の有無の問題と、この新時代に踏み込むべきかどうかの問題が同一の問題となり、結果的には、1868年に徳川幕府が大政奉還し明治維新となり、開国派の新政府が作られ、新時代に突入し今日に至った。我々日本人は、ついぞ、新時代の様々な思想文化は、世界を含めて、その明治以後のことのように思ってしまうが、既に、パリ、ロンドン、ニューヨークは、今日と変わらない街並みを形成し、ロンドンに至っては、1866年に地下鉄が出来、これは個人的な感覚であるが、二十年後の1887年には、シャーロックホームズの第一弾緋色の研究が世に出るというような時間関係にあった。

 というような時系列で見てみると、まさにペリーが来航し開国を迫った当時、前後して日本にようやく届いていた海外先進国の情報が現実のものとして目の当たりにし、続いて、慌てて続々と欧米に視察に赴いてみると、あまりの凄さ、未来社会を見たような感覚、筆舌に尽くせない衝撃が、知的レベルの高い武士や公家に走ったことが、容易に想像できる。だからこそ、一夜にして、丁髷を落とし刀を捨てたのだと思える。だがしかし、そのいかにも感動的感慨深そうに我々に見える、一大変化について、語られたものに(少なくとも私は)探してもお目にかからない。

 日本に大挙して、商売を求めてやってきた異国人は、特にヨーロッパ人は、日本の文化の高さを感じとってやってきていた。その段階で、日本が西洋化するのを好奇と驚異の眼差しで、実に興味深く、今から言えば千載一遇のチャンスといえる、その機会と光景を、様々な異国人が、書いたり、手紙を本国に送っていたのであった。武士をなぜ一夜にして捨てたのか、その心境はどうだったのか。維新はどうしてできたのか、その実際はどうだったのか。1840年にアヘン戦争が仕掛けられ、隙あれば国を呑み込む勢いの欧米に、不平等な通商条約を押し付けられはしたが、少なくともどうして植民地にはされなかったのか。むしろ、異国人の著わした文に、解決の糸口があるように思えてならない。そのような気持ちになったのも、つい最近のこと、幕末明治の疑問を明快に解きほぐし且つ読む者に自発的に更なる疑問創出を駆り立て、混沌とした幕末明治の闇の深みに入り込み、入ったら最期、やすやすとは出て来れない情況に陥ること請け合いの本に巡りあったからである。

 諸説あり、真偽も取りざたされている、1865年幕末志士46人が一堂に集まり取られた写真がある。この写真が、世の一般に最初に出たのは、明治18年の雑誌太陽だとされ、以後、数回しか、話題にされてきていない。最近では、10年ほど前に、一般新聞に陶板の写真の通信販売の商売としての広告が載って賑わったようであるが、私は気づかなかった。5〜6年前、知合いから、そのコピーなのかフレームに入れた飾り写真をもらい大切にして飾っていたので、とても関心を持っていた。その写真を本物とする立場は、なぜこの写真が抹殺されてきたかを問題とする。そこにはなにかスゴイ理由があるのではないかと。「幕末維新の暗号」加治将一著(祥伝社)は、その写真を巡って、とてつもない陰謀の実行があったことを示唆している。その核心的部分は、述べるのを差し控える、というよりも躊躇するので、是非読んでご自身で考えいろいろな文献や読み物を自分で探していただきたいと思う。この写真の一番の問題人は、岩倉具視と相向き合うように座っている優しい顔をした若者である。

 何れにしろ、私は、その本で、日本の天皇と幕府政治体制の関係の意味、それと取分け、南北朝問題が露呈した天皇と武士の関係の、日本史において如何に重要であるかを知るに至った。学校では、字面でしか日本の歴史を教えないということか。西郷隆盛がなぜあのような形で友人大久保利通に最期やられなければならなかったのか。同様に、あの写真にも一緒に居る江藤新平が大久保利通直々に佐賀までやってきて、なぜ晒し首にされなければならなかったのか。岩倉具視欧米視察として、新政権革命樹立のまだまだ不安定な明治4年から2年間も政府の最要人(大久保利通、伊藤博文、木戸孝允ら政府トップ)達が日本を離れたのか、その必要は新たな知識見聞のためだけだったのか。更には、北朝の流れのはずの明治天皇が、なぜ南朝が正しいと言ってしまったのか、なぜ南朝側に付いて戦った楠木正成の馬に乗った銅像が皇居にあるのか、などなど。明治10年くらいまで、つまり西南戦争終結までの日本は、何か変だな、この本を読んでいて色々気づかされることが山ほど出てくる。誰しも思うに違いない違和感は、やはり変だということなのだ。

 そして、本題に戻ると、結局、今からして、高々150年位前、私は55年生きているので、生まれたころからすれば100年前に、日本は、ものすごい変化を成し遂げた(もしかしたら主として三人の外人アーネストサトウ(英)グラバー(英)フルベッキ(米)の力が必要だったのかもしれないが)、いわば革命的なことが行われ、その上に今日の日本があるわけなのに、現在においても全てが判っているのではなく、しかもそれが、当時も今も意図的に消されたり、又タブーとされるような問題も、意図的あるいは自然発生的に誘導したりとあって、極めて曖昧な捉え方で済まされているのが、今の情況ではないかと思う。冷静になって考えれば、おかしくないか、と思われる事実の表面的な説明の他に、別の本等の理由が必ずあるようだ。結局、薩長でこしらえた新政府の隠れた部分、不都合な部分は、新政府によって抹殺されていると見るほかないと言い切れるのかもしれない。

 その写真、現在も、意図的に、無意味化を誘導するような、ネットの書き込みが見られ、その大きな問題の渦中に自分がいるような気がしてワクワクしてしまうほどである。私には、その写真の人間達の発する氣がとてつもなく強いように感じられ、ただ事ではない写真に見えて、新政府が抹殺した様々な重要な事実を余生をかけても解きほぐしたい気持ちにかられてしまった。なぜか、それは、昭和20年に旧体制が破綻したにもかかわらず、形式的には連続性を持たせた現在の政治体制が連綿とそこにあり、様々な問題の原因をひきずっているような気がしてならないからである。地下鉄のホームでは、最前列に並ばないようにしよう!!!