相模原グリーンロータリークラブ
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相模原グリーンロータリークラブ
第584回例会週報

583回 | 585回 | 2004-05週報目次
◆ロータリー100周年を祝おう 「平和の白い鳩」
清水 酉雄 会員
「平和の白い鳩」

 1995年3月 私が会長エレクト研修セミナーに出席した時の資料の中に老沼パストガバナーが講師して受講した資料を基に100周年を記念して話しをさせて頂きます。

 昭和12年里見ガバナーが訪米の折に、シカゴRC会員からお聞きになった話を、国際ロータリー月報(ガバナー月信)12月号の中に紹介しておられますが、当時の人々がロータリーの発祥をきわめて好意的に迎えたことが伺い知れると思います。
 「……20世紀の幕は開かれたものの、シカゴの世情は混沌とし、あらゆる罪悪、貧困、闘争が渦を巻いていたが、遂に物情騒然たりし市俄古に平和の白鳩が翔んできてロータリー精神が芽生え、やがてそれが育成発展するに至った……」と。
 今、この平和の“白い鳩”は世界の各地に迎えられ、果たして力強く羽搏いているでしょうか。
 今日はこの白鳩を尋ねながらロータリーの源流を辿り、次年度のクラブ運営について考えてみたいと思います。

1)親睦か奉仕か……寛容の精神
 ロータリーが始まって間もない頃からポール、ハリスは“外への奉仕”を考え始めておりましたが、ポールのあと第4代目に会長に就いたハリー、ラグルスはあくまでも“内なる親睦”を第一として譲らず、二人の意見は平行線のまま話し合いの糸口さえ見出せませんでした。
 このようなときポール、ハリスは、1911年に創刊された「The National Rotarian」に“合理的ロータリー主義”と題した論文を発表し、その中で「寛容」の大切さを強調されたのであります。
 これは、ロータリーの方向や奉仕の方策などについて、本音で議論をしつくしても遂に合意に達しないときは双方が寛容の精神をもって妥協し、融和を図るべきと教示されたのであって、決してロータリアンとしては恥ずべき行為に寛容であれということではないと思います。
 むしろこのようなときに、ロータリアンが口を閉じるということは、ロータリーの閉鎖につながるのではと危惧されるのであります。

2)ロータリー元服する……二大標語
 我が国では古来男子が15才に達すると大人の姿に変える元服の儀式が行われてまいりましたが、ロータリーは1911年に発表された2つの標語によって、早くも元服を迎えたものと考えられるのです。
 F.コリンズの“Service Above Self”
 A.F.シェルドンの“He Profits Most Who Serves Best”
 この二大標語は、それまで相い容れなかった親睦と奉仕を結び、奉仕は親睦によって活力を益し、親睦は奉仕によって潤いを深くすることを端的に表現したものと理解されます。
 もともとロータリーはポール、ハリスの孤独から生まれたものと言われます。青年ポールのインスピレーションが寂寥の泪に宿り、細い雫が涙となり、やがて幾筋かの源流となっておりましたが、この二つの標語によって流れの方向が教示されたものと考える訳であります。
 このとき、ロータリーは元服し青年の歩みを始めたのでありましょう。
2004年 規定審議会審議結果一覧表に掲載されておりますRIの第2標語から性別限定用語を削除する件”They Profits Most Who Serves Best”に変更

3)職業奉仕か社会奉仕か……職業論理訓
 以来、ロータリーは親睦と奉仕が両輪となり順調に青年の歩みを続けておりましたが、成長とともに、“奉仕の仕方”について相対する二つの考えが芽生えて両者の主張が次第に激しくなってまいりました。
 このようなとき、1915年のサンフランシスコ国際大会に於て「職業倫理訓」が採択され、「職業は価値あるもので、世に奉仕する絶好の機会」と定義し、「職業分類制度による1業種1人の会員制による職業奉仕こそロータリー奉仕の道」。と定められました。“I Serve”であります。
 一方1917年には国際的社会奉仕団体として“We Serve”をモットーとしたライオンズ運動が発生いたしました。
 ロータリーに於ても、これに刺激されるように各クラブが社会奉仕を競い合い、遂にはこれらの慈善クラブ的グループとあくまでも職業奉仕の堅持者との間で、“実践か理論か”の厳しい論争が続けられることになりました。

4)ロータリーの成人式……決議第23−34号
 1923年のセントルイス国際大会で決議23−34号が採択されたことはその後のロータリーにとって極めて意味深いことでありました。以来今日までの永い間、「ロータリー初期の人々が開拓した諸源流を結集して、理論と実践の調和を中心に集大成された実践哲学」。と評価されロータリアンの行動基準となってまいりました。またこの決議により久しく続いた論争に終止符が打たれて、クラブ奉仕、国際奉仕と共に四大奉仕の理念が固められたのであります。これはまた、いくつかの谷間を流れていた源流が合流し、大地を潤す大河の姿になったことを表現したもので、ロータリーが大人になったと世に認められたものと考えられます。決議23−34号はまさにロータリーの成人式を祝う賛歌でありましょう。大会に出席した米国大統領ハーディング氏は祝辞の中で、「ロータリークラブのできた街は、必ず以前より良くなる……」。と讃えられ、ロータリーが平和の“白い鳩”であることを証言されました。

2.日本にロータリー運動
1)1920年 東京RC設立……会員は超エリート
 シカゴの庶民から生まれたロータリー・クラブが日本においては東京、大阪の一流の実業家や名士の中から選ばれた英文にも堪能な超エリートによって構成されることになりましたが。果たして今、私達は“エリート”でしょうか、クラブは“エリート集団”と肩を張れるでしょうか。
 ○エリート……上流階級の出身で自らもてるものを提供し、危険には率先して挺身し、一般の人々を守る。しかし、時に“施し”の感覚が見えることがある。
 ○エリート意識……選ばれたという衿持をもちながら、他のためにとの意識を忘れない。
 ○エリート気取……戦後の金銭重視の世相にあって、財物奉仕を旨としながらも、他の為になることに心を満している。
 ○エリートまがい……自らを傑材と思いこみ、奉仕の心を忘却して対面保持にのみ腐心し、他からの奉謝に意を用いる。
 お互いに、ロータリアンとしての誇りをもって“エリート意識”を守りながらも、奉仕の源泉である“庶民の心”“路地の味”を大切にして欲しいものです。

2)1923年ロータリーの始動……関東大震災
 大正12年9月1日の関東大震災に対しRIはいち早く多額の義捐金と心温まる激励のメッセージを寄せてまいりました。
 これは前年の1922年、ロスアンゼルス国際大会で承認されたばかりの「国際奉仕」実践の第1号と評される快挙となったものであります。
 またこのときの“ロータリーは1つの家族”という考えはのちに「W.C.S.」の理念となりましたが、東京RCは、託された義捐金を遅滞なく焼失した学校や病院等の復興に当て、孤児のための“Rotary Home”建設資金とするなど極めて妥当、適切な配分をされたと言うことであります。これはまた、日本における「社会奉仕」活動の記念すべき第1号と言えるものでしょう。
 東京クラブの会員は、このことに啓発され、それまで月1回程度の集りで社交クラブ的だった例会を週1回と正規に改め“超我の奉仕”をモットーに活力ある「クラブ奉仕」を展開することにしました。
 このように日本のロータリー運動は、列島を揺り動かした関東大震災(M7.9)のエネルギーによって始動したものと考える訳であります。

3)1940年RIから脱退……なくなって判ったロータリー
 1930年〜'40年は、日本のロータリーにとって受難の時代と言えましょう。
 大連RCの初代会長をつとめた松岡洋右氏が外務大臣となり、国際連盟を脱退するなど急速に戦時色を濃くし、英文を用い米国に送金しているロータリーに対する軍部や右翼の弾圧が日増しに強まり、ロータリアンの苦慮は並々ならぬものでした。この為にロータリーでは、まず文書通信等を和文とし、例会場にはロータリー旗と共に“日の丸”を掲揚して“君が代”を唱うこととしました。またこれに合わせて新しく日本語のロータリーソングを発表し、「奉仕の理想」を合唱しました。
 “御国に捧げん我等の業”は、ロータリアンが皆お国のために尽くしているのであり決して米国の手先でないことをアピールしたものと考えられるのであります。
 しかしこのような必死の努力も空しく1940年(S15)遂にRIからの脱退を余儀なくされることになってしまいました。
 これからの9年間、水曜クラブ或いは木曜会などと名称を変えながらロータリーの心を守り続けてくれた当時のロータリアン達が、「なくなって判ったロータリーの良さ」。を語られる切なさに胸を打たれる思いがいたします。またかって「若しロータリーが解散することになったとき、果して地域から“困るから続けてくれ”と頼まれるであろうか」。と警告された故加藤宗兵衛PGの思いを忘れることはできません。
 私達はこれから「なくならなくても判るロータリーの良さ」を念頭に、先輩方にお応えして行かなければと思う次第であります。

4)1949年 RIに復帰……熱意と意欲
 1949年(S24)に日本のロータリーはRIに復帰することになりました。9年間の空白を味わったロータリアン達のロータリーへの熱意が戦後いち早い復帰を果し、その後のロータリー活動の目覚ましい進展を促したものと考えます。
 訪日したハロルド、トーマス氏が「日本のロータリアンの意欲はまことに旺盛、成長発展は間違いなし……。」と折紙をつけた一言は、復帰した許りの日本のロータリーへの期待の大きさを物語っているものと思います。
 この期待に背かず、1952年には早くも地区が分割され、D60とD61に分れることになりました。矢野一郎会員の作になる新ロータリーソング“手に手つないで”と“どこで会っても”は“離れるつらさ”を切なく唱っております。
 また翌1953年1月には、両地区交流誌として「ロータリーの友」が創刊されることになりました。これがのちに私達にとって唯一の機関雑誌となったのであります。また1953年は米山奨学会制度が発足した年でもございます。
 これは戦時中、東南アジアを中心に、迷惑をかけた国々の青少年のためにと純粋な償いの眞情をこめた制度で、ロータリアンがこれを傷め汚すことなど厳に慎しむべきことと思う訳であります。
 さてこのように復帰の原動力となった“熱意と意欲”は、いかに世の中進んでもロータリー活性化のエネルギーとなるものではないでしょうか。
 そしてロータリー運動が永遠なることを約するものであります。
 今後も150年200年、永遠にロータリーの平和の白い鳩が力強く羽ばたき続けられますよう祈願して。