<「ほんね」と「たてまえ」>

原 会員 2001.10.15

 

 


今の日本社会を反映して、ロータリー運動においても、本音と建前を使い分けることが多いと思われます。「ロータリー!いろいろあるかもしれないけど、まあー適当に、あまり難しく考えるのはいやだなー」、例会で楽しい会話をして、時々夜に飲みに行って、面白可笑しく過ごせればよい。奉仕はそこそこで!形が付けばそれでいい!自由にさせてよ!etc・・

個々人の事情はあるとしても、クラブ全体の雰囲気がこうなると問題です。「思想は実行である。私はそれを忘れていない」(“惜しみなく愛は奪う”―有島武郎)はとても重い言葉であります。

 確かに「個性と自発性の尊重」という、自由主義の考え方は、今の世界でもっとも現実的な倫理基準でありましょう。しかし自由主義というのは、要するに『他人に迷惑をかけなければ何をしてもいい』という思想でもあります。コミュニタリアンであるマッキンタイヤーの言、『他人に迷惑をかけなければ何をしてもいい!という自由の空しさ(否定性)は、文化を退廃と混迷へと導いている』(“現代倫理学入門”―加藤尚武)という指摘もあります。おそらく21世紀はこの自由主義と共同体主義の擦り合わせから新しい道を模索する時代であると信じます。そしてロータリーは共同体主義の立場であり、「超我の奉仕」を目指し職業倫理運動を展開していることを、我々は真摯に背負うべきです。

さて「ほんね」と「たてまえ」であります。

これについて加藤典洋氏は“日本の無思想”のなかで、「ほんね」と「たてまえ」という考えの根底にあるものとして次の指摘をしています。「それは『どっちだっていいや!』という、そもそものところで、僕たちに気づかれないほど強く、深く、僕たちをとらえている、ニヒリズムです」、「たてまえも真ではなく、ほんねも真ではない!」というわけです。彼は戦後日本社会の病理としてそれを解いているのです。続けて紹介するならば、ロータリーの大先輩である佐藤千壽氏の「職業倫理」の一節をあげたいと思います。《人間は誰でも「利他心」と「利己心」と、この相反する欲求を持っている。我々はこの心の中で葛藤する本能の調和をはかりながら人生を生きていくのである。だからその意味での「ほんね」と「たてまえ」なら、洋の東西を問わず、すべての人に共通して存在する。然し「利他心」も「利己心」も、共に人間存在の本質だとするなら、何れも共に「ほんね」であるべきで、一方が「ほんね」を隠す隠蓑になる所に問題がある。そして「たてまえ」がたんなる隠蓑であり看板に過ぎない、という悪弊が慣習として定着し、誰もそれを疑わない、ということは極めて遺憾なことである》以上いろいろご紹介いたしました。ともあれ一歩一歩の前進で良いと思います。我々は「奉仕の心の学び道」を我々なりのマイペースで歩みましょう。大事なことは「前を向いて歩く」ことなのです。