われわれグリーンRCも十年以上の歴史を重ねました。当然に壮年、老年会員も増え、初心に対する緊張感も薄れつつあります。こうなるとお互いの間の遠慮もなくなり、良く言えばツーカーの仲(良友&悪友?)にもなります。しかし場合によっては意見の対立がむき出しになり、ぶつかりあうことも起こりやすくなります。まことに残念なことで、仲間を悲しめ、連帯感に水を差すこととなります!さてポール・ハリスは、ロータリーにおける心構えとして次のように言っています。
" avoid discussions of dissentious subjects "→「喧嘩になるような問題の議論は避けて通れ」。
彼は続いて「手を携えて共通の仕事に精を出せ。そうすれば友情という御褒美が出る」ともいっています。とにかく相応の行動基準を持つことが求められていると思います。
この点について森三郎PG著(2570地区)、「私のロータリー」での御意見を紹介したいと思います。
「ロータリーはほめ合う場所」-人をほめることは簡単のようで、そうではありません。「人ぼめ」は心にもないお世辞とは違うのです。律義な人を本当にほめられるのは、律義の価値を本当に知っている人、自分も几帳面な人に限られます。ですからロータリアンの奉仕をほめられる人は、自分も奉仕の心を持っている人だけなのです。奉仕をしたことのない人には、人の奉仕をほめることもできないはずです。口先だけのおべっかは別にして。奉仕がわかる人が集まって、ほめ合う場所がRCだとも言えるでしょう。
ほめることもほめられることも、それが偽りの言葉でさえなければ、人生を豊かに楽しくしてくれる大事な要素だと思います。
近ごろ、叱る教育からほめる教育へ、ということが教育者の間でよく言われています。良い所を伸ばす教育の方が、悪い所をつぶす教育より大事だということです。何もそれは子どもだけのことではございません。人をほめられるということは立派なことなのです。自分にもその良さがあるからこそ、人の良さがほめられるのです。
ですから私は、例会では堂々とほめ合うことを提唱したいと思うのであります。ところで奉仕が分かるということは、理論が分かるということとは別のことです。実践のぶらさがった言葉で、行動の中からつかみとることが必要です。何らかの感動体験があったとき、ふいに、降ってわいたように腑におちるのが「分かる」ということです。機縁はいつ訪れるか予測できるものではありません。ゆえに、例会に出席していることが大切です。花火の音がドンと聞こえてから、あわてて外へ飛び出しても、もう遅いのです。じっと夜空を見つめていた人だけが、パッと咲く光の花を見ることが許されるのです。
理想のない人はロータリアンになれないと思います。奉仕というのは、夢を追う道筋に咲いている花のようなものです。夢が描けませんと奉仕の花を摘むことも難しくなると思うのです。夢は、人それぞれに抱いている理想です。
先日、乳癌の死亡率をゼロにしたいというロータリアンにお会いしました。そういう人であって初めて、職業奉仕も社会奉仕も、一切の奉仕がその人の人生の道筋に花咲くのだと思います。ロータリーは皆さん一人ひとりの夢を励ます、「人ぼめ」の広場のようなものではないでしょうか。(125〜126P-森PGの和光RC・公式訪問時の卓話)
(2003/8/1 ロータリー情報委員会 原 幹郎)
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